平成・危機の目撃者➒ 徳島勝幸が見た「超低金利大国ニッポン」

経済の実力そのもの、悪材料に耐性も 平成元年(1989年)1月に4%台後半だった長期金利は足元ではマイナス圏での推移が続いている。1998年の「運用部ショック」や2003年の「VaRショック」などで金利が跳ね上がっても長続きしないのは日本経済の実力そのもの――。債券市場の「ご意見番」の一人で現在はニッセイ基礎研究所で金融研究部年金研究部長を務める徳島勝幸氏は「VaRショックなどを経て債券市場は成熟し、悪材料への耐性を強めている」と話す。 徳島勝幸氏 とくしま・かつゆき 1986年に京大法学部を卒業し日本生命入社。91年ペンシルベニア大学ウォートンスクールで経営学修士号(MBA)を取得。資産運用関係の業務に25年以上に渡って従事し、債券投資、資産配分、クオンツ運用、リスク管理、運用コンサルティングなどを幅広く担当。中でも社債・地方債などクレジット投資に関しては豊富な経験を有し、社債市場の活性化やTOKYO PRO-BOND Market設立にも関与。様々な年金・共済組合などで運用委員を務めるほか、社会保障審議会資金運用部会委員や証券アナリストジャーナル編集委員 ◆人口構成の変化で潜在成長率が低下 銀行などが金利変動から生じそうな損失を推計し、相場下落(利回りは上昇)のリスクを避けるために売りを増やそうとするVaRの問題がなぜ03年に顕在化したのかはよくわからない。日銀の量的緩和政策やイラク戦争などに伴って債券保有の度が過ぎ、逆回転のエネルギーをためていたのだろうが、いずれにしろあまりの強気相場に市場では警戒感が出始めていた。 自分も03年6月の20年物国債入札を前に「こんな(低い)利回りの20年債なんか買えない」と言った記憶がある。イールドカーブ(利回り曲線)が平たんになってしまったことも響き、生保や年金などが積極的な買いを見送ったため、銀行の売りが売りを呼ぶ展開になったとの解説が多い。それでも金利上昇は長続きしなかった。 戦後の高度成長期を見てきた人と話すと「金利はもっと高くあるべきで、いずれ上がる」とのバイアス(偏り)が強い。だが平成に入ると少子高齢化などで(若者が少なくなる)人口構成の変化が進み、潜在成長率は下がった。経済の実力からいって、物価が上昇しない限り、日本が高金利であるはずはない。バブル時代を知らない世代も大部分が「金利は上がらないもの」ととらえていると思う。 平成の30年あまりで金利上昇をもたらす「ショック」は何度か経験したものの、現在はご覧の通りだ。日銀の異次元緩和政策によって低く抑えられている点を割り引いても、なかなか金利は上がらないというのが実態だろう。 ◆入札や決済の制度変化、債券市場の成熟促す 生保業界にはかつて、運用資産の5割以上を国債などの元本保証商品に充て、株や外貨建て資産は3割以下、不動産は2割以下しか投資できない「5・3・3・2規制」があった。それが財務の健全性に焦点を当てた「ソルベンシー規制」に変わり、より総合的なリスク管理をするようになっている。 さらに01年に米国で起きたエンロンの不正会計事件や日本のマイカル社債のデフォルト(債務不履行)などは企業の情報開示を見直す契機になった。財テクの時代は本業とは関係のない非連結子会社で何をしているかわからないケースが山ほどあったが、財務諸表や非財務情報にかなり書き込まれるようになった。30年前に比べればはるかに多い情報を得ることができる。 もちろん、M&A(合併・買収)などを受けて投資対象先の財務構成が全く違うものになり、財務状況が悪化したときに既存の社債保有者は守られないといったリスクは残る。だが総じてみると、この30年で企業の財務状況の透明性は増し、エンロンのような事件は発生しにくくなったと判断していい。 債券市場の仕組みもだいぶ洗練されてきた。今では入札方式が当たり前の国債は、平成が幕を開けたころはシンジケート団の引き受けによる発行だった。10年債は89年から部分的に価格競争を導入し、シ団引き受けは05年末に廃止。5年や30年、40年債など当時はなかった年限も加わって豊富になった。 決済方法は劇的に変わった。平成初期は「5・10日(ごとおび)」決済だったから、受け渡し日までは先物のような差金決済が可能だったので、現物投資家でも現金を使わずに先物感覚でディーリングできたのだが、現在は翌日受け渡し。隔世の感がある。 こうした変化は市場原理を取り入れた規制緩和のたまものだ。統制から自由へとかじを切り、市場の成熟を促してきた。だからこそ日銀が金利をコントロールし続けることは適切ではない。 ◆膨らむ日銀頼み、ぬぐえぬ不安 債券も株も日銀頼みの部分が膨らみすぎてしまった。銀行も証券会社もだいぶ集約され、外資系証券は日本のマーケットはもうからないと撤退が相次いだ。積極的な運用を仕掛けるのが難しい債券市場は機能喪失に陥り、若手は力を伸ばせなくなっている。この先、昔を知る人がいなくなった後にもし金利上昇の時代が来たらどうなるだろう。不安は拭えない。 平成の初めに「とりあえず金利を上げたほうが景気は良くなるのはないか」との議論がみられた。金融引き締めは景気に悪影響を及ぼす半面で金利があるからこそ債券に向かうマネーは増える。定期的な利息収入は株などの他のリスク運用をする際の心のゆとりにもなる。だが、こんな低い金利ではどうしようもない。 運用者には厳しい時代がまだ続くだろう。ここ数年は株高・円安基調の陰に隠れていたが、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が18年10~12月期に14兆円規模の運用損を出したように、相場変動に右往左往する事態は増えるのかもしれない。東京五輪や大阪万博の開催は景気に対する一時的なカンフル剤にはなるが、その谷間はどうするのだろうか。 また、日本全体の金融リテラシーはまだ低い。例えば「スワップ取引などのデリバティブ(金融派生商品)は悪いもの」との考え方がいまだに強い。現物の投資(買い)に対して先物のデリバティブで売り持ちを作れば全体のリスク量は減らせる。問題はデリバティブという商品ではなく、その扱い方にあると理解されていない。 一方、銀行預金に次ぐ運用手法として投機的な株の信用取引や外国為替証拠金(FX)取引を持ち出す不思議な風潮もある。リスクを適切に管理した、まっとうな「投資」がもっと広がってほしい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

平成・危機の目撃者➋ 深代潤が見た運用部ショック(1998)

一瞬、揺らいだ日本国債の信認 一時8%台まで上昇した日本の長期金利(10年物国債利回り)はマイナス圏のまま平成を終えようとしている。1990年(平成2年)から債券運用に携わってきた三井住友アセットマネジメントの深代潤グローバル戦略運用グループヘッドは「平成の債券市場は異常事態が多発した」と振り返る。中でも印象的なのは98年秋~99年初めに起きた大蔵省(当時)の「資金運用部ショック」と2003年の「VaR(バリュー・アット・リスク)ショック」だという。 深代潤氏 ふかしろ・じゅん 1988年に日本債券信用銀行に入行。資金営業室で大企業向けの金融商品のセールスを担当した後、市場証券部、証券部で国内債券業務に携わる。その後は日債銀投資顧問やトヨタアセットマネジメントでファンドマネージャーを務めた後で2013年4月、会社合併により三井住友アセットマネジメントに入社。16年10月からグローバル戦略運用グループヘッドに就き、17年4月からは執行役員を兼ねる ◆記憶に残る「4大ショック」 1990年から債券運用に携わり、日々の相場状況やレートをノートに書き留めてきた。基本的に「べき論」で成り立ち、外国為替などに比べると理屈や経験則通りに動く債券市場では記録がいっそう大切。何度も読み返したので背表紙ははがれかけている。 それでも平成には異常事態が多発した。かつて成り立った「財政悪化は金利上昇の要因」との方程式は90年代後半から崩れていく。債券運用者として利回り面での「春」を謳歌できたのは長期金利が6%台から8%に上昇した平成の前半だけだ。以後はデフレと金融危機、それらに対処するための財政拡大と日銀の政策対応に債券市場は振り回されて相場の力学は複雑になっていった。 特に印象に残る出来事は「資金運用部ショック」と「VaRショック」。格付けなどみなが信じているものこそ疑うべきだと痛感させられた08年の「リーマン・ショック」も忘れられない。さらに時がたち、運用者としてぐうの音も出なくなったのが「黒田緩和」(日銀による異次元の金融緩和政策)だ。 ◆「まだ終わってねえぞ」「投げるな」 運用部ショックでは0.6%台から2.4%台へ、VaRショックでは0.4%台から1.6%台へと、いずれもわずかな期間で長期金利が急上昇したが、何とか乗り切った。まだどうにか経験をいかせる時代だったといえるだろう。 運用部ショックは財政支出の拡大が先行するなかでの金利低下局面とあって(逆回転に)備えはしていた。想定外だったのは日銀の速水優総裁(当時)が突然「財政拡大時の金利上昇は当然」との認識を示したことだ。 政治家と財務省、日銀の足並みが乱れれば国債の信認は後退し、金利はリスクプレミアムを織り込む形で上昇していく。速水氏の発言を受けて債券市場で投げ売りが膨らんだ。同僚のディーラーは「終わりましたね」と嘆いたが、金融危機のまっただ中で金利が上がるはずはないとの信念で「まだ終わってねえぞ」「投げるな」と言い聞かせながら買い下がり、生き延びた。 03年のVaRショックは債券依存度を高めていた銀行勢の持ち高が「沸点」を超えたために起きた。一部の銀行が持ちきれなくなった債券を売り、ボラティリティー(変動率)が急伸するとそれに耐えられなくなった売り手が次々とあらわれ、自己増殖的に売りが加速していった。 銀行の債券運用は国債相場のボラティリティー(変動率)安定を前提にしている。投資が収益追求の行動である限り、誰よりももうけたいとの欲望は止められない。だが持ち高を永遠に増やせるわけではない。いつかはオーバーシュート(行きすぎ)の段階にいたる。ファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)が改善しているのに下がりっ放しの金利はおかしいとオーバーシュートの気配を感じ、銀行の深追いはしないようにした。 運用ではデフォルト(債務不履行)債券を一度もつかまなかった。基本的に投資対象の格付けは「A格」以上と決めている。これまで保有中にA格から格下げになったのは1社だけだ。だからこそリーマン・ショックで信用リスクへの懸念が強まっても動じず、逆に買い増す余裕を持てた。 ◆歴史から学べること、学べないこと 一方、13年4月に始まった「黒田緩和」は出だしからとんでもないことになった。会社の合併に伴い、今のチームに移って数日、システムの仕組みに慣れておらず、まだ発注すらマニュアルなしではおぼつかないときだ。期初の資金流入などによりかなりまとまった額で買わなければならなかったところに「バズーカ砲」を撃ち込まれた。 マーケットからは売り手が消え、買い気配でまったく値が付かない。買うに買えなくてぼうぜん自失、「この会社での運用者人生は終わったな」と本気で考えたものだ。 朝一番で出した成り行きの注文に応じてくれる相手が見つかったのは何と14時をすぎてから。しかも前日とあまりにもかけ離れた(高い)水準での取引成立に「これ間違ってるよね?」と思わず口にしたのを覚えている。 歴史から学べるものは確かに多い。例えば1990年代後半の日本の金融危機では「流動性」の大切さを思い知らされた。金融機関や企業が破綻するのは資金が回らなくなるからだ。 97年秋に三洋証券が無担保コール市場で初のデフォルトを起こし、巨大な短期金融市場での取引が凍りつくと、間を置かずに北海道拓殖銀行が倒れた。デリバティブ(金融派生商品)市場も縮んで山一証券の破綻につながった。「次はどこか」との疑心暗鬼がどんなに恐ろしいかは2008年のリーマン・ショックでも明らかになった。その過程で信用リスク対応のノウハウもだいぶ積み上がったが、今度は金融政策がどんどん未踏の領域に進んでいる。 日銀の掲げる2%の物価目標を達成することと、国民生活を豊かにすることは次元の違う議論だ。バーナンキ元米連邦準備理事会(FRB)議長の「ケチャップを買え」ではないが、闇雲に物価だけを上げればいいはずがない。 日銀はマイナス金利政策の欠点を理解しつつも導入せざるを得なかったのだろう。それゆえマイナス金利をすべてには適用しない仕組みを整えたが、市場の拒否反応は強かった。政策はすぐには変えられない。効果がないとも、間違えたとも、役割を終えたとも認められずに長期化する金融政策には「出口」は見えてこない。日ごろの投資判断の材料は日銀オペ(公開市場操作)の増減額予想のみだ。 先行きの見えない今は、国内債への傾斜は難しい。社債などのクレジット商品や外債にお金を振り向けざるを得なくなっている。新しい元号になって祝賀ムードが盛り上がり、ラグビーワールカップ日本大会や東京五輪などをへて国内経済の楽観論が戻り、現状の閉塞感を打破できればよいのだが。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

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