平成・危機の目撃者⓯ 香月康伸が見たリーマン・ショック(2008)=最終回

震源地はいつもクレジットバブル 背後にはいつもクレジット(信用)バブルがあった――。リーマン・ショックをもたらした米国のサブプライム(低所得者層)向けローン市場の混乱など、平成の世界を揺さぶった危機はおおむね信用バブルが震源地になっている。1997(平成9)年に経営破綻した山一証券の出身で、現在は投資銀行部門の市場調査を手掛けるみずほ証券の香月康伸シニアプライマリーアナリストは「これからも『すべての道はクレジット商品に通ず』だ」と話す。       香月康伸氏 かつき・やすのぶ 1989(平成元)年に山一証券入社。証券営業の後、英国留学し帰国後は債券部でリサーチに携わる。山一の自主廃業に伴って98年に興銀証券(現みずほ証券)に移り、国内外のクレジット市場と公的部門、ストラクチャードファイナンスを中心に調査業務を続け、2014年にはプロダクツ本部のプライマリーアナリストとして発行体向けリサーチ活動を始めた。19年4月からサステナブル・ファイナンス室SDGsプライマリーアナリストを兼務 ◆レバレッジ追求、マネーの総額が実体経済の3.5倍に 平成の約30年間で、実体経済の規模をはるかに上回るお金(マネー)が市場に出回るようになった。世界の金融資産の総額と名目の国内総生産(GDP)のバランスは1980年ごろはほぼ均衡していたが、日本のバブル期の90年には金融資産が名目GDPの2倍を超えた。リーマン・ショックが起きる前年の07年には3.5倍程度まで膨らんだ。 借り入れを併用し運用資産を膨らませていく「レバレッジ」をここまで追求できた時代は過去にない。大量のマネーがファンドや証券化商品に流れていくのを横目に「ファンド資本主義」なる言葉も生まれた。その延長線上でサブプライムローンの市場が膨張し、ベアー・スターンズやリーマン・ブラザーズを巻き込んで破裂にいたったのは自然な流れといえるだろう。 ファンド資本主義という言葉が生まれた当時、「ニューキャピタリズム」と呼ばれる考え方も出てきた。融資先が破綻すれば金融システム全体を動揺させかねないとの伝統的な思想に対し、ファンドを通じて世界中から資金調達できればシステムは安定し、危機は発生しにくくなると主張するものだった。 企業が成長資金としてマネーを求めるのではなく、マネーが投資対象として企業を求める。過剰流動性が我も我もと投資先を取り合ったために企業の債務不履行(デフォルト)率は確かに下がり、世界的な低金利環境も背景に投資残高は積み上がった。だがいずれ限界は来る。信用膨張が極限まで進んだときに起きたのがリーマン・ショックだった。 ◆「北極星」が動くほどの衝撃 米国のサブプライムローン債権は様々な形で証券化された。市場参加者のほとんどは「(証券化商品が抱える)リスクは全部分散しているから大丈夫」と安心しきっていたが、右肩上がりと思われていた米住宅価格の上昇が止まり、(住宅価格の上昇を前提としていた)サブプライムローンの仕組みの根幹が崩れるとマネーの逆回転が始まる。 そのころ、金融保証会社(モノライン)が最上格のトリプルA格を失った。モノラインは金融市場の関係者にとって北極星のようなもの。情勢判断をするうえでの重要な支点となる。モノライン格下げは北極星の位置が動いたぐらいの衝撃だった。余剰資金の大きな受け皿となっていた米住宅市場とその証券化商品が発火点になり、危機的状況に陥った。 リーマン・ブラザーズの破綻で世界を金融不安が覆うと、銀行支援に乗り出さざるを得なくなった欧州各国の財政は悪化する。体力のない国への投資家の視線は厳しくなっていき、南欧諸国との格差問題など、ポピュリズムの台頭のきっかけにもなった。 うねりは新興国にも波及し、マネーの還流を伴いドル高が進行。金融システム不安と全く関係のなかった日本の円にも「低リスク」とみなす買いが入り、円高を通じて実体経済が打撃を受けてしまう。 ともあれ様々なイベントの中心には常にクレジットがいた。平成はそんな時代だったわけだ。 ◆社債発行市場は20年余りで成熟、確実に前進 山一証券が1997年に自主廃業をしたときには債券のディーリングルームにいた。日本の社債市場元年はこの97年と考えている。97年と98年の2年間で、実に20兆円もの起債があった。 97年は中堅の三洋証券が無担保コール市場でデフォルトし、次いで北海道拓殖銀行が倒れた。そして山一だ。金融不安の中で株価は下がり、景気も悪くなっているのに企業はなぜ資金調達をしようとしたのか。10年ほど前のバブル最終局面で発行された大量の新株予約権付社債(転換社債=CB)が満期を迎え、借り換えのニーズが高まったためだ。 エクイティ(株式)のファイナンスはできず、銀行も金融不安のなかで融資に応じる余裕はない。残された選択肢が社債だった。国債比での金利の上乗せ幅は相当なものだったが結果的に、それまで電力債が大半だった日本の社債市場に様々な業種の発行体を呼び込み、年限の多様化が進んだ。99年にはノンバンク社債法施行や普通銀行の社債発行解禁などもあり、市場はおおいに盛り上がった。 間接金融が主体の日本市場では米国などに比べると社債市場の規模はまだ小さい。だが足元では、40年の社債発行も一般的になるなかで三菱地所による50年債が出てくるなど、成熟度は高まりつつある。確実に前進はしていると感じている。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =おわり

平成・危機の目撃者⓮ 大西知生が見た外為指標不正の真実(2013)

信用失墜の瀬戸際、取引ルール作りに奔走 巨大な外国為替市場では参加者の利害関係が極めて複雑だ。しかも相対取引が中心のため長年、明確なルールがないままの「なれ合い」体質がまん延していた。国際ルールが固まったのはつい最近の2017(平成29)年。きっかけは13年、10年代前半まで繰り返されてきた外為指標の不正が発覚したことだ。ルール作りに奔走し「Mr.FXJapan」と呼ばれた大西知生氏は「あそこで動かなければ外為市場は瀕死(ひんし)の状態に陥ったかもしれない」と振り返る。       大西知生氏 おおにし・ともお 1990年に慶大経済学部を卒業し東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に入行。その後はチェース・マンハッタン銀行(現・JPモルガン・チェース銀行)やドイツ銀行グループで為替市場にかかわり、2017年12月まで東京外国為替市場委員会の副議長として国際ルールの整備にあたった。現在は仮想通貨(暗号資産)交換業への参入を目指すFXcoinの代表取締役社長 ◆なれ合い体質まん延、顧客無視のディーラーも 2010年代前半、金融・資本市場では2つの大きな不祥事が起きた。一つは世界の企業向け融資や、金利スワップなどのデリバティブ(金融派生商品)の基準となるロンドン銀行間取引金利(LIBOR)を巡る談合問題。12年、欧米大手銀の担当者が自らに利益になるようレートを決めていたことが発覚した。もう一つは13年に明らかになった為替指標の操作疑惑だ。欧米金融機関の一部の為替ディーラーが顧客から受けた注文に関する秘密情報を共有し、決済に絡む指標を操作しようとしていたとわかった。 疑惑発覚前の外為市場には取引規範として明文化されたルールがなかった。大手自動車メーカーがいくら売っている、機関投資家がいくら買っているといった情報があふれ、ディーラーたちが大手顧客の注文に便乗し売買をするといった顧客無視の動きがあった。いまでは禁止されている「見せ玉」などを駆使して収益をあげるのが良いディーラーとさえ思われていた。モラルの高いディーラーはなかなか利益を出せない不公平な状況も生じていた。 外為指標の不正はそうした不公平感や不満が吹き出す引き金にもなったほか、不祥事の責任が個人に対して追及されたために世界中のトレーダーは萎縮し、疑心暗鬼の連鎖によって日々の取引量は目に見えて細った。ルール作りは待ったなしだった。 ◆日本主導でガイドライン、バイサイドを説得 関係者が多岐にわたるとあって道のりは平たんではなかったが、日本がリーダーシップをとってどうにか合意にこぎ着けた。まず東京外国為替市場委員会は「外国為替ガイドライン」を作り、情報共有などについて具体例を挙げながらディーラーができること、できないことを「○」「×」形式で示した。例えば具体的な取引先名や、特定の水準にいくらの注文が控えるかなどは伝えてはならない。 東京を含む主要8カ国・地域の外為市場委員会の代表が東京に集まり2015年3月に開催された「外国為替市場グローバル会合」でこのガイドラインを公表すると、○×方式は分かりやすいと高く評価された。17年5月に国際決済銀行(BIS)が明らかにした「グローバル外為行動規範」でも同じ形式が採用になった。内容は日本に近い。外為業務の国際ルールをようやく一本化できた。 ガイドライン作成にあたってまずは国内の大手銀行、証券のマネジャーたちを集めて会合を開いた。すると「ガイドラインの通りに業務をするともうからなくなるからと反対」との声があがった。半面、自分の部下であるドイツ証券のスタッフには「ガイドラインよりもさらに厳しく律するぐらいにしてほしい」と指示した。顧客の一部は「ドイツ証券は情報をくれなくなった」と離れていった。 ガイドラインを作っても使ってくれる人がいなければ意味がない。大手製造業、商社、機関投資家などの「バイサイド」にも理解してもらわなければならなかった。東京外為市場委員会のメンバーはバイサイドと何度も議論した。 当初は「外為市場の改革というが、そもそもセルサイド(銀行や証券などのセールス部門)が悪いことをしたのが原因。その結果ルールを厳しくしたから情報提供などのサービスクオリティーが低下するのでは納得がいかない」と不満をぶつけてくるバイサイド幹部もいた。それでも市場の健全化はセルサイドだけでなくバイサイドも恩恵を受けるのだと粘り強く説明し、理解を得た。 一方、指標関連の不祥事をもたらしたヒューマン・リスク(人間のトレーダーを置くリスク)を完全に消し去るのは難しい。このところ急速に進んでいるコンピューター取引や人工知能(AI)の活用拡大はこと外為市場では避けられないだろう。感情をもたない機械取引はプログラムに沿って淡々と動くので、恣意的な不正はしない。記録も取りやすく顧客への説明責任を果たせる。 ◆今度は仮想通貨、実需拡大に期待 外為市場で自分ができることは一通りできたかなと思っていたところに仮想通貨と出会った。「外為市場のルール作りをした大西さんのような人が仮想通貨業界にもいたらいいのに」と周囲に乗せられる格好で転身を決めた。「仮想通貨は人々の生活を豊かにする」と確信した当時の思いは変わっていない。 17~18年初めのようなバブルが再び起こる可能性は低く、国際送金などにおける仮想通貨の利用を模索する企業は増えている。バブルを起こした投機取引の熱は冷めたが、決済などに絡む「実需」が拡大すれば、必要なインフラとして世間の認知度が増すだろう。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)尾崎也弥 =随時掲載

平成・危機の目撃者⓭ 八尾和夫が見たマイナス金利政策(2016)

「黒子」日銀のあるべき姿を問う まもなく「令和」の時代が幕をあける。一方、日銀は長短金利操作付きの量的・質的金融緩和を粘り強く続ける構えで、終わりが見えない。日銀で高松や仙台の支店長を歴任し、現在は東京証券信用組合の理事長を務める八尾和夫氏は「突然のマイナス金利政策は日銀マンだった私も本当に驚かされたが、日銀の政策がここまで世の中を騒がせるのは過去になかった」とサプライズ続きだった平成終盤の政策対応に戸惑いを隠さない。 八尾和夫氏 やお・かずお  1975年に日本銀行に入行し、留学、北京勤務などをへて人事局研修課長や情報サービス局広報課長を務める。98年1月から高松支店長、2002年5月から仙台支店長を歴任後、05年6月に全信組連の専務理事に転じた。11年6月に中央労働金庫の常勤監事に就いた後、15年6月から現職 ◆あっという間に崩れるのがマーケット 日銀のマイナス金利政策には参った。導入が決まった2016年から我々が手掛ける証券金融の世界にまで、新たな収益源を求める地方の銀行などが参入してきた。我々よりも低い貸出金利を提示し、利ざやは縮まった。 半面で資金需要はさほど刺激されず、貸し出しの量は増えない。単純に金融機関の利ざやを落とす「効果」ばかりが目立つ。金融機関の経営者は業態にかかわらず軒並み頭を抱えているはずだ。 金融緩和の出口はいずれ来る。スムーズに着地できればよいが、株や債券など金融市場の先行きに気をもむ市場関係者は少なくない。だからといって今の時点で運用をゼロにするわけにはいかず、株買い、債券買いの持ち高は膨らんでいく。転換点で起きる衝撃が大きくならないよう願うばかりだ。 きっかけは何にせよ、あっという間に崩れるのがマーケットの歴史だ。日本人が9割保有しているから問題ないといわれる日本国債であっても安心してはいられない。 ◆政治に振り回されている ここ数年は一般のメディアでも日銀の一挙手一投足を追いかけているが、こんなに日銀に関心が高まることはかつてなかった。金融政策は本来、世の中が過激な方向に傾かないよう調整したり、時間稼ぎをしたりするものだ。日銀は黒子のように、任せておけば知らないうちにうまくやってくれる、そういう信頼される存在であって欲しい。 1998年4月の日銀法改正は「大蔵省本石町出張所」(日銀本店の住所は日本橋本石町)とも称された日銀に、きちんと権限と責任を持たせて独立させるべきだとの機運が高まったからだ。では日銀は一体どこを見ることになったか。国民とその代表である国会だった。それ自体はあるべき姿なのかもしれないが、昨今はかなり政治に振り回されている感じがする。 昭和の時代は首相ですら(当時の政策手段である)公定歩合に触れるのはご法度だった。それも今は昔。日銀には、短期的な視点に偏りがちな政治とは距離を置き、中長期的な観点から政策を打ち出すことが本来は求められているのではないか。 ◆「デフレ脱却」は何を示すのか、「物価上昇」で何を目指すのか 日銀の中には2つの広報部門がある。マスコミ向けの対応をする専門部署の企画局広報と、マスコミを除く広報業務を手掛ける情報サービス局だ。 日銀も主体的に自ら発信をしていこう――。90年、国内外に向けての情報発信や外部からの問い合わせや要望などの窓口となる情報サービス局ができた。97年にホームページの開設にこぎつけ、スクリーンに映るパソコン画面を示しながらの記者発表では「画期的な仕組みだ」と感嘆の声があがった。 97年といえば北海道拓殖銀行や山一証券など大きな金融機関が相次いで破綻に追い込まれた。情報サービス局には「日銀の政策が悪いからではないか」と直接お叱りの電話がかかってきた。それでも開かれた日銀を目指そうとの姿勢は変わらなかった。 98年1月に赴任した高松支店長時代は、日銀に対する幅広い理解を得ることの大切さを痛感した。四国地方では都市圏ほどバブルの後遺症はなかったもののさまざまな金融不祥事が報じられるなか、日銀への風当たりもかなり強かった。「豪華すぎる」と批判を受けた支店長舎宅を引き揚げるとテレビのワイドショーにも取り上げられた。 仙台支店長を務めていた2002年、金融再生プログラムが発表され急速な不良債権処理が進むなか、「銀行も破綻やむなし」といった雰囲気が広がり続け、株価も急落した。03年にりそな銀行への公的資金注入が決まり、ようやく株価は底を打ったが、経済の先行きは読めない。地元経済界との懇談などで何と説明したらよいのか本当に苦しく、体調を崩してしまったほどだ。それでもいろいろと考えを巡らし、自分の言葉で語り続けた。 当時、政治は株価が上がると「政策が良かったから上がる」と都合のいいようにアピールし、株価が下がると「マーケットはマーケットが決めるから仕方ない」という。政治の動向も、相場決定の重要な一因となるはずだが……。 ところで「デフレ脱却」とはいったい何を示すのだろう。単なる貨幣現象なのか、経済活動の本質そのものなのかが曖昧に聞こえる。物価さえ上がればよいというものではなく、経済の活性化を通じて潜在成長率を高めることが大切だろう。 令和の時代に向け、より長期的で総合的な政策を展開していってほしい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

平成・危機の目撃者⓬ 伊藤嘉洋が見たバブル崩壊(1992)

市場の宿命、令和の時代も必ず起きる 平成の日本はバブル崩壊とその後始末に追われた。海外でも1997(平成9)年のアジア通貨危機や2008年のリーマン・ショックに直面し、18年にはインターネット上の仮想通貨ビットコインなどのバブル崩壊が起きた。それらの出来事が示すのは、投資家が利益を追求する限りバブルは避けられないということだ。株式市場にかかわって今年で57年、酸いも甘いも知る大ベテランの伊藤嘉洋・岡三オンライン証券チーフストラテジストは「バブルは次の令和の時代でもまたやってくる」と断言する。 伊藤嘉洋氏 いとう・よしひろ 1962年に岡三証券に入社し、取引所のフロアで独特のサインを駆使して売買注文を出す「場立ち」から市場でのキャリアをスタート。90年には株式部長に就任し、約9年間にわたってメディアの解説者やセミナー講師としても活躍。その後は岡三投資顧問、岡三アセットマネジメントを経て2010年から現職。長年の経験を生かした相場見通しや銘柄解説は評価が高い ◆「敗戦処理」に明け暮れた日々 岡三証券の株式部長に就任したのは1990(平成2)年4月だった。前年の12月に日経平均株価が3万8915円の史上最高値を付け、世の中は浮かれきっていた。大手証券会社からは5万円などという今から思えばとんでもない予想まで飛び出した。資産価値がどんどん高くなって給料やボーナスも増え、それが一段の株高につながっていたのだが、いったん崩れるとあっという間だ。 相場があれよあれよと下げ始めたのは92年のこと。証券各社が何度予想を切り下げても止まらず、日経平均はついに2万円の節目を割り込んだ。(損失が生じた)顧客に毎日頭を下げ続ける文字通りの「敗戦処理」となったが、それを乗り越えて99年まで株式部長を務められたのを誇りに思う。 岡三投資顧問に移った後に経験したのが99~2000年にかけてのIT(情報技術)ブームだ。コンピューターやインターネットの発達でネット企業に対する投資熱が高まり、自動車や機械といった「オールドエコノミー」から主役が交代していく動きを目の当たりにした。だが、ここでもバブルは起きた。 2つのバブルのけん引役はいずれも海外マネーによる先物の買いだった。日本で先物取引が始まったのはバブル終盤の88年でまだ歴史が浅く、先物を積極的に取引する国内投資家はまだ少なかった。今でこそ「海外の先物買い」はよく知られているものの、当時は姿があまりはっきりせず、気がつくと先を越されていた。特に個人がついて行けない。「高値づかみ」をした結果、相場の下落局面で痛手をこうむるのをたくさん見てきた。 ◆家計に巨額の貯蓄、投資余力は大きく 2008年のリーマン・ショックや12年以降のギリシャの財政不安などいくつかの危機を乗り越え、日経平均は昨年10月に2万4000円台と、27年ぶりの高値を付けた。90年代のバブル崩壊の傷がようやく癒えようとしているなかで「令和」の新時代を迎える。秋には消費増税を控え、働く世代の懐は苦しくなりそうだが、家計全体では依然として巨額の貯蓄を抱える。個人の投資余力は大きく、バブルはどこかのタイミングでまた繰り返されるだろう。 個人が平成初期のバブル時代に買った不動産や株などの資産価値は当時には到底及ばないため、売るに売れない状況が続きそうだ。ただそんな人たちも子供がいれば遠からず相続の時期が来る。相続する側は資産が含み損を抱えているとの認識は乏しい。特に不動産の現金化にはためらいはないだろう。 不動産や株の売却が進むと相場を一時的には押し下げるかもしれないが、懐の潤った個人は新たな消費や投資に動く可能性が高い。株式市場にも新たなお金を呼び込みそうだ。 しかも日欧を中心に世界はなおも歴史的な低金利環境にある。市中にあふれて行き場をなくしたマネーは株式などのリスク資産に移らざるを得ず、景気の悪化局面でもしばらくは株高を促すはずだ。 ◆過去に学び、転換点を見逃すな ジョン・テンプルトンが残した有名な相場格言に「強気相場は悲観の中に生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、陶酔の中で消えていく」とある。リーマン・ショック後の米経済が長期回復をしながら先行き不透明感が残っているように、足元は「懐疑」に向かっている段階だと思う。株価の本格上昇は実はここからではないか。それでもバブルは必ず崩壊する。 日本の個人がまた負けないために大事なのは、過去の教訓に学んで相場の転換点を見逃さないことだろう。日々の動きは「あや」にすぎないと割り切り、相場が大局的にみて「上昇」、「横ばい」、「下降」のどの段階なのか冷静に見極めてほしい。そのうえで、自らの決めたルールに従って損失を確定させる潔さが必要だ。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)尾崎也弥 =随時掲載

平成・危機の目撃者⓫ 池水雄一が見た「有事の金」の復権(1999)

財政も将来も不安、ソブリンリスクに目向く 「有事の金」。その存在感が増したのは実はここ20年ほどの話にすぎない。1980年代に東西冷戦が終わった後、政治リスクが薄れたと判断した各国の政府・中央銀行はいざというときのために取っておいた金を売り続け、「金は石ころになる」とまで言われた。転機は99(平成11)年のワシントン協定だった。商品市場の生き字引で「ブルース」の異名を持つディーラーの池水雄一氏は「中銀による金の売却基準を厳しくしたこの協定がなければ金の復権はなかった」と振り返る。 池水雄一氏 いけみず・ゆういち  1986年上智大学外国語学部卒業、住友商事入社。90年からクレディ・スイス銀行、92年から三井物産の貴金属チームリーダーを務める。2006年に南アフリカのスタンダードバンク(現ICBCスタンダードバンク)東京支店副支店長に転じ、09年から支店長。元三和銀行(現三菱UFJ銀行)の外国為替ディーラーで現在は衆議院議員を務める今井雅人氏(本シリーズ➌に登場)は大学の同級生 ◆ワシントン協定で中銀の売却を制限 1989(平成元)年に1トロイオンス=400ドル程度だった金価格はワシントン協定を境に復活し、足元では1300ドル近辺で推移している。協定ができた99年といえば97~98年のアジアやロシア危機の余韻さめやらぬころだ。新興国を中心に財政赤字への懸念がくすぶっていた。 それまで長らく、中銀は金の最大の売り手だった。運用担当者が第2次世界大戦を知らない若い世代に代わり、「冷戦は終わったし金を持っていてもしかたない」との雰囲気がまん延していた。だがアジア危機などをへて、1970年代からの財政拡張で高まってきた国家のリスク(ソブリンリスク)に目が向かいやすかったのかもしれない。 協定では欧州各国の中銀が年間の売却量を計400トンに制限することになった。欧州系の中銀は保有している金の貸し出しもしていて、借り入れた鉱山会社などは先物の売りで価格下落のリスクを回避(ヘッジ)してきたがそれにも制約をかけた。協定締結まで緩やかな右肩下がりで、300~400ドル程度を行ったり来たりしていた金相場はにわかに底堅くなった。 世界に存在する金の総量はよく「オリンピックプール3杯半ほど」と表現される。一辺21.3メートルの立方体程度なのだという。限られたパイの中で最大のプレーヤーである中銀の売りを抑えれば、需給はおのずと引き締まる。 その後、2001年に起きた米同時多発テロは国際情勢の緊張感を再び高めた。世界は思ったほど平和ではない――。世界大戦や冷戦構造から局地的なテロが新たな脅威として意識されるようになり、「セーフヘイブン(安全資産)」として金のニーズが高まった。 ◆鉱山会社のヘッジ売りも止まる ワシントン協定は金鉱山会社の手足も縛った。金の先安観が強かった80~90年代の相場環境で、オーストラリアや南アフリカなど主要産金国の鉱山会社は中銀から安く借り入れた金を主な担保に数年先までの生産分相当額の先物を売ってきたが、中銀がなかなか金を貸してくれなくなったので市場から調達せざるを得ない。コストは上がる。ヘッジが機能しづらくなっていた。 ヘッジ戦略は相場の下落時に鉱山会社を守ってくれるが、先物売りが現物の売りに波及し値段をさらに下げる負の側面もあった。ワシントン協定はその悪循環を止める役割も果たしたわけだ。 しかも01年以降は「有事の金」復権で価格が上昇傾向に転じ、数年前に安い価格で積みあげた先物の売り持ち高には含み損が膨らむ。金価格の下落がこれ以上は見込めないとなると、各社は先物の買い戻しを急ぎ始めた。先物売りが減るだけでなく買い戻しが入る。買いが「倍々ゲーム」で広がるようなものだ。 ただディーラーの視点では「有事の金買い」にあまり踊らされないことが重要だ。紛争などが起きて投資家が我先にと金を買うと、必ず相場のオーバーシュート(行きすぎ)が起こる。短期的にはひとまず調整が入る「有事の金売り」を意識し、落ち着いたところで改めて買うスタンスが良いだろう。 平成の話ではないが例えば、1979年に発生したソ連のアフガニスタン侵攻。ニューヨークの金相場は200ドル台から850ドルまで急騰した後、すぐに押し戻されてきた。目端の利く投機筋は誰よりも早く持ち高を作ろうとし、イベントが人々の間で認知されれば利益確定を進める。そんなときは相場はいったん下がる。 ◆米中ロ、国際政治の不透明感を反映 2006~07年ごろから金の世界は変わってきたと感じる。08年のリーマン・ショックに続き、足元では英国の欧州連合(EU)からの離脱(ブレクジット)問題やトランプ米政権の登場などいままでの常識では考えられない事態が起き、資本主義の前提が崩れてきた。漠然とした将来の不安は解消しそうにない。「有事の金」の価格が200~300ドル台に戻る可能性はもうないだろう。 米国が金本位制を放棄した1971年の「ニクソン・ショック」からしばらくは金の大口保有者は米国とドイツなど先進国の中銀で、ワシントン協定まで金の売り手だったのは欧州勢だった。だが2010年ごろから中銀は金の買い手に転じている。中国やロシアなどが外貨準備として保有していた米ドルを売り、金の買いに傾いているためだ。米国との微妙な関係と国際政治の不透明感を映していると考えられる。 基軸通貨のドルを持つ米国は別の通貨を多く保有していてもしょうがないので外準に占める金の割合は現在も75%と突出している。その他の欧州各国の間に中国やロシアなどの「新参者」が割り込んでいく展開になってきた。 中国は世界1位の、ロシアは世界3位の金産出国でもあるため、市場で買わなくても金の保有割合を増やせる。近年はロシアが世界6位、中国は7位の金保有国に浮上した。ロシアが数年前にルーブル下落に苦しんだ際にどうにか持ちこたえられたのは、金の保有を多くしていたからとの指摘が聞こえてくる。 リーマン・ショック以降の米金融緩和政策の影響は大きかった。低金利の資金が行き先を求めて市中にあふれる構図は金に限らず商品相場全体に追い風だった。2012年に量的緩和第3弾(QE3)が始まったころ1600ドル台で推移していた金相場は、米連邦準備理事会(FRB)の出口政策が意識されると1200ドル台まで下げたが、19年に入ると今度は「緩和の終わりの終わり」が意識されている。金は再び上昇トレンドに戻ると予想している。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

平成・危機の目撃者➓ E・ユルマズが見た「トルコショック」(2018)

政治も経済も危うさ、リラ急落は再び起きる 長期金利がマイナス圏に沈むなど、金利低下が続いた平成の日本。行き場を失った個人マネーの一部は高い金利の新興国に向かった。そんな中で2018年の夏にかけて起きたトルコリラ・ショックは、新興国運用の難しさを改めて意識させた。トルコ出身のエコノミストで現在は日本で株式投資のアドバイザーも務めるエミン・ユルマズ氏は「トルコの政治的混乱は簡単には収まりそうになく、ショックは再び起こり得る」と警鐘を鳴らす。   Emin Yurumazu氏 えみん・ゆるまず トルコ出身で1996年に日本に留学。2006年に東京大学大学院理学修士を取得後、野村証券に入社し15年に四季リサーチ株式会社に移る。現在は複眼経済塾の取締役・塾頭として、投資を実践する方法を指南中 ◆GDP(Global Debt Problem)の火種 平成が始まるとほぼ同じタイミングで冷戦が終結し、東西の区別がなくなった。資本が世界中をかなり自由に動けるようになり、新興国はお金の調達が容易になった。その結果、借金が膨らみ、2000年からいままででおよそ3倍の240兆ドル近くに増えた。 新興国の高い成長は多額の借金のうえに成り立っている。その現実は忘れてはならない。国民総生産(GDP)ならぬ「GDP(Global Debt Problem)」が危機の火種になる可能性を常に警戒すべきだろう。 中国だけでなく、インドやメキシコも主要先進国に匹敵する経済規模になってきた。20カ国・地域(G20)の枠組みの中でもっと発言権を持っておかしくないのだが、そうはなっていない。 ◆米露のはざまで揺れ動く 米通商代表部(USTR)は3月上旬、トルコとインドを一般特恵関税制度(GSP)から外すと発表した。十分な経済発展を遂げたためというのが表向きの理由だが、本当は新興国に米国側につくか、ロシアにつくかを選ばせているだけだ。冷戦の構造は変わってないのかもしれない。 トルコは北大西洋条約機構(NATO)加盟国でありながら、ロシア製のミサイルシステム「S400」を導入しようとしている。米国とロシア双方のご機嫌をとっているわけだ。S400のパーツは今年の夏にも届くとされており、米露の間でのトルコの振る舞いが第2のトルコショックのような状況を引き起こす可能性は十分にある。 3月末の統一地方選では、エルドアン大統領が率いる与党連合が首都で敗北したとみられるなど厳しい結果だった。内政も昨年に比べると安定しているとはいえない。 トルコ軍は1980年代から、クルド人の独立国家建設を目指す武装組織である現在のクルド労働者党(PKK)と武装闘争を繰り返してきた。PKKの分派勢力は過激派組織「イスラム国」(IS)の掃討作戦で米軍と協力したため、トルコ政府の扱いは難しくなっている。ISと唯一真剣に戦ってきたクルド人を見直す機運が国際的に出ているうえ、長引く内戦でクルド人たちのアインデンティティが強まり、クルド人国家が誕生するのは時間の問題かもしれない。 ◆原油価格上昇の影響大、通貨安に エネルギー輸入とドル建て債務が多いトルコ経済は原油価格の影響を受けやすい。トルコリラと原油相場の関係をみると、原油高とリラ安のきれいな「逆相関」が成り立つ。中東や南米の政治不安が原油高を促せばトルコの景気とリラへの打撃も大きくなる。高い金利にばかり目を奪われていては本質を見誤るのではないか。 日本人は投資対象として日本を見直す必要があるだろう。世界経済の中心は米国と中国を中心とした環太平洋圏に移っている。欧米から日中をみた「ファーイースト(極東)」の表現はもう当てはまらない。 日本には隠れた名企業がたくさんある。選球眼を磨き、個別株の運用を通じてもっと投資を楽しんでほしい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)矢内純一 =随時掲載

平成・危機の目撃者➒ 徳島勝幸が見た「超低金利大国ニッポン」

経済の実力そのもの、悪材料に耐性も 平成元年(1989年)1月に4%台後半だった長期金利は足元ではマイナス圏での推移が続いている。1998年の「運用部ショック」や2003年の「VaRショック」などで金利が跳ね上がっても長続きしないのは日本経済の実力そのもの――。債券市場の「ご意見番」の一人で現在はニッセイ基礎研究所で金融研究部年金研究部長を務める徳島勝幸氏は「VaRショックなどを経て債券市場は成熟し、悪材料への耐性を強めている」と話す。 徳島勝幸氏 とくしま・かつゆき 1986年に京大法学部を卒業し日本生命入社。91年ペンシルベニア大学ウォートンスクールで経営学修士号(MBA)を取得。資産運用関係の業務に25年以上に渡って従事し、債券投資、資産配分、クオンツ運用、リスク管理、運用コンサルティングなどを幅広く担当。中でも社債・地方債などクレジット投資に関しては豊富な経験を有し、社債市場の活性化やTOKYO PRO-BOND Market設立にも関与。様々な年金・共済組合などで運用委員を務めるほか、社会保障審議会資金運用部会委員や証券アナリストジャーナル編集委員 ◆人口構成の変化で潜在成長率が低下 銀行などが金利変動から生じそうな損失を推計し、相場下落(利回りは上昇)のリスクを避けるために売りを増やそうとするVaRの問題がなぜ03年に顕在化したのかはよくわからない。日銀の量的緩和政策やイラク戦争などに伴って債券保有の度が過ぎ、逆回転のエネルギーをためていたのだろうが、いずれにしろあまりの強気相場に市場では警戒感が出始めていた。 自分も03年6月の20年物国債入札を前に「こんな(低い)利回りの20年債なんか買えない」と言った記憶がある。イールドカーブ(利回り曲線)が平たんになってしまったことも響き、生保や年金などが積極的な買いを見送ったため、銀行の売りが売りを呼ぶ展開になったとの解説が多い。それでも金利上昇は長続きしなかった。 戦後の高度成長期を見てきた人と話すと「金利はもっと高くあるべきで、いずれ上がる」とのバイアス(偏り)が強い。だが平成に入ると少子高齢化などで(若者が少なくなる)人口構成の変化が進み、潜在成長率は下がった。経済の実力からいって、物価が上昇しない限り、日本が高金利であるはずはない。バブル時代を知らない世代も大部分が「金利は上がらないもの」ととらえていると思う。 平成の30年あまりで金利上昇をもたらす「ショック」は何度か経験したものの、現在はご覧の通りだ。日銀の異次元緩和政策によって低く抑えられている点を割り引いても、なかなか金利は上がらないというのが実態だろう。 ◆入札や決済の制度変化、債券市場の成熟促す 生保業界にはかつて、運用資産の5割以上を国債などの元本保証商品に充て、株や外貨建て資産は3割以下、不動産は2割以下しか投資できない「5・3・3・2規制」があった。それが財務の健全性に焦点を当てた「ソルベンシー規制」に変わり、より総合的なリスク管理をするようになっている。 さらに01年に米国で起きたエンロンの不正会計事件や日本のマイカル社債のデフォルト(債務不履行)などは企業の情報開示を見直す契機になった。財テクの時代は本業とは関係のない非連結子会社で何をしているかわからないケースが山ほどあったが、財務諸表や非財務情報にかなり書き込まれるようになった。30年前に比べればはるかに多い情報を得ることができる。 もちろん、M&A(合併・買収)などを受けて投資対象先の財務構成が全く違うものになり、財務状況が悪化したときに既存の社債保有者は守られないといったリスクは残る。だが総じてみると、この30年で企業の財務状況の透明性は増し、エンロンのような事件は発生しにくくなったと判断していい。 債券市場の仕組みもだいぶ洗練されてきた。今では入札方式が当たり前の国債は、平成が幕を開けたころはシンジケート団の引き受けによる発行だった。10年債は89年から部分的に価格競争を導入し、シ団引き受けは05年末に廃止。5年や30年、40年債など当時はなかった年限も加わって豊富になった。 決済方法は劇的に変わった。平成初期は「5・10日(ごとおび)」決済だったから、受け渡し日までは先物のような差金決済が可能だったので、現物投資家でも現金を使わずに先物感覚でディーリングできたのだが、現在は翌日受け渡し。隔世の感がある。 こうした変化は市場原理を取り入れた規制緩和のたまものだ。統制から自由へとかじを切り、市場の成熟を促してきた。だからこそ日銀が金利をコントロールし続けることは適切ではない。 ◆膨らむ日銀頼み、ぬぐえぬ不安 債券も株も日銀頼みの部分が膨らみすぎてしまった。銀行も証券会社もだいぶ集約され、外資系証券は日本のマーケットはもうからないと撤退が相次いだ。積極的な運用を仕掛けるのが難しい債券市場は機能喪失に陥り、若手は力を伸ばせなくなっている。この先、昔を知る人がいなくなった後にもし金利上昇の時代が来たらどうなるだろう。不安は拭えない。 平成の初めに「とりあえず金利を上げたほうが景気は良くなるのはないか」との議論がみられた。金融引き締めは景気に悪影響を及ぼす半面で金利があるからこそ債券に向かうマネーは増える。定期的な利息収入は株などの他のリスク運用をする際の心のゆとりにもなる。だが、こんな低い金利ではどうしようもない。 運用者には厳しい時代がまだ続くだろう。ここ数年は株高・円安基調の陰に隠れていたが、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が18年10~12月期に14兆円規模の運用損を出したように、相場変動に右往左往する事態は増えるのかもしれない。東京五輪や大阪万博の開催は景気に対する一時的なカンフル剤にはなるが、その谷間はどうするのだろうか。 また、日本全体の金融リテラシーはまだ低い。例えば「スワップ取引などのデリバティブ(金融派生商品)は悪いもの」との考え方がいまだに強い。現物の投資(買い)に対して先物のデリバティブで売り持ちを作れば全体のリスク量は減らせる。問題はデリバティブという商品ではなく、その扱い方にあると理解されていない。 一方、銀行預金に次ぐ運用手法として投機的な株の信用取引や外国為替証拠金(FX)取引を持ち出す不思議な風潮もある。リスクを適切に管理した、まっとうな「投資」がもっと広がってほしい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

平成・危機の目撃者➑ 大沢孝元が見たLTCM破綻(1998)

甘いリスク管理、はかなく散ったドリームチーム あんな偉人でも間違えるのか――。1998(平成10)年、通貨オプションのカリスマの一人で、ノーベル経済学賞受賞者でもあるマイロン・ショールズ氏が加わっていたヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻し金融工学系の市場参加者に衝撃を与えた。当時、社会人になったばかりの大沢孝元氏もその一人だ。為替のデリバティブ(派生商品)に長く携わってきた大沢氏は「LTCM事件をきっかけにリスクの正しい認識がいかに難しく、そして重要か分かった」と振り返る。 大沢孝元氏 おおさわ・たかもと 1998年に東京工大大学院の総合理工学研究科環境物理工学課程を修了後、チェース・マンハッタン銀行(現JPモルガン・チェース銀行)に入行。ストラクチャラー・カスタマーディーラーとして市場経験を積んだ。2007年6月にバークレイズ銀行の東京支店に転じるとストラクチャー担当で頭角をあらわし、14年に市場営業本部長に就いた。18年1月からは東京外国為替市場委員会の副議長も務める ◆巨大な振幅が瞬時に拡大、理論は役立たず LTCMはショールズ氏のほか、ショールズ氏とフィッシャー・ブラック氏が作ったデリバティブの価格算出式「ブラック・ショールズ方程式」を証明により確立し、ノーベル経済学賞をとったロバート・マートン氏も参加していた。米連邦準備理事会(FRB)出身者もいて市場からは「ドリームチーム」と呼ばれていたが、97年のアジア通貨危機と98年のロシア財政危機が抱える潜在的なリスクを見逃した。 LTCMの基本戦略は、資産価格が割安か割高かを見極めて売り買いする「レラティブ・バリュー」。自らの資産の何倍にも運用額を膨らませるレバレッジ取引に傾いていた。にもかかわらずリスク管理が甘かった。 リスク回避(ヘッジ)は厳密にし過ぎるとパフォーマンスを下げてしまう。半面、しないと市場が予想と真逆に動いたときのダメージは計り知れない。 ブラック・ショールズ方程式は相場の動きを予測するモデルで、熱伝導に似た法則性を活用している。だが、危機時の相場は巨大なエネルギーが波のように振幅を伴って瞬時に広がる。ブラック・ショールズ式の理論が役に立たない。 強気一辺倒の場合はバブルを起こし反動は激しい。それを防ぐにはリスクを認識しヘッジ可能な環境が必要なのだが、90年代はリスク管理に使えるパラメーター(要素)が少なすぎた。 リスクをリスクと気づかない状況。リスクに気づけず膨らんだ持ち高はリスクの顕在化とともに破裂し、影響は倍どころか「乗数」で拡大していく。 例えば外国為替市場での円高・ドル安だ。98年10月7日の夕刻、突如円相場は1秒間に1円以上の速さで急伸し、持ち高の時価評価額はわずか数分で数千万円~数億円振れた。経験不足だったあのころは怖くて顧客の電話はとれなかった。 折しも日本は金融システム不安のまっただ中だった。97年の三洋証券を皮切りに銀行と証券会社の破綻が続いていて、生命保険会社の一部は身売りを迫られた。不良債権問題から抜け出せず長くもがいてきたが、それだけにリスク管理では先行できたかもしれない。LTCM破綻後の円の急伸を主導した日本マネーによる対外資産の圧縮は2008年のリーマン・ショックではさほど目立たなかった。 人は「のど元すぎると熱さを忘れる」という。リーマン・ショックにおける欧米の混乱は1990年代の危機を忘れてしまったのかと思わせた。対して日本はバブル崩壊からの立ち直りが遅れていたぶん、自分も含めてリスクへの感応度や耐性は磨かれていたかもしれない。 ◆市場の歪みは本物か、どれだけ続くか見極めを 通貨オプションなどのデリバティブを組み合わせて商品設計する「ストラクチャー」部門での営業経験が長い。すべての商品の基本はリスクとリターンは釣り合うということ。メリットが大きければリスクも大きいし、メリットが小さければリスクも小さいわけだ。 リスクとリターンを釣り合わせればどんな商品でも作れてしまう。うまみの大きな商品はそれなりのリスクを内包している。低リスクで高収益を生む商品は作れない。 そんな世界なので、売る側にも買う側にも高い倫理観と専門知識が求められる。もし市場に何らかのゆがみが存在し、デリバティブで利益を得るチャンスが高いと判断したとしても、本当にゆがんでいるのか、ゆがみがどの程度持続するかは常に意識しなければいけない。利益追求の意欲が先にたつあまり、実は自分たちの目のほうがゆがんでいたなんて話もずいぶんある。 相場にかかわる人はすべからく、「何を勉強してもプラスにしかならない」と日々研さんすべきだ。数年前にギリシャ危機が起きた際にはギリシャ関連の書物を読みあさった。電子ブローキング(EBS)の価格変化の背後に、ギリシャの先人が川辺で板を使って洗濯する光景が思い浮かんだほどだ。そこまでのめり込んではじめてわかってくることは少なくない。 ◆AIはまだ発展途上 ここ数年、市場をにぎわせている機械取引や人工知能(AI)の分野はまだ発展途上だ。いまAI活用の場とされているのは、90年代から続くパターン分析や回帰分析の延長にすぎない。大量のマーケットデータを集めた「ビッグデータ」を機械に学習させて将来を読み解こうとするアプローチは、マシンラーニング(機械学習)であってもパターン分析の域を出ていない。 確かに機械学習によってパターン予測はできる。期間や利益率、リスクの量といった項目を詳しく入力すると、短期的には効果をあげられるレベルには達した。誤解を恐れずにいえば短期の相場を支配するのは主に様々な「ノイズ」で、それをビッグデータから解析できると一定の成績はあげられる。 AI活用の次のステップは中長期の相場予測だろう。マーケットデータは様々な「多次元的」要素を上がるか下がるかの「1次元」につぶしてしまっているので、取り扱いには注意しなければならない。大量のデータを使ったとしても、現実に起こっている相場変動を完全には分析できない。 現実の相場は人々の思考や文化、宗教、欲望や営みまでが複雑に絡み合う。あらゆる情報は相場に反映される半面、逆はまだ現時点では真ではない。 最近は気象の勉強を始めた。やりたいことが多すぎて時間が全然足りない。データ処理とAIの進展で次に何が生まれるのか、楽しみだ。10年後、20年後に後れをとることのないよう頑張りたい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)菊池亜矢 =随時掲載

平成・危機の目撃者➐ 松田邦夫が見たジャパンプレミアム(1990年代後半)

ニッポン信頼低下の象徴、疑心暗鬼の連鎖 バブルの後始末が始まった平成前半、金融市場では邦銀向け上乗せ金利「ジャパンプレミアム」の嵐が吹き荒れた。銀行や証券会社の不祥事と経営悪化が相次ぎ、日本の金融システム全体に対する海外からの視線が厳しくなった。誤った情報が疑心暗鬼の連鎖を招くケースもあった。1990年代後半に日銀で国際金融を担当し、海外向けの正しい情報発信に奔走してきた松田邦夫氏は「信用不安の恐ろしさと予防的対応の大切さを痛感した」と振り返る。 松田邦夫氏 まつだ・くにお 1980年に日銀に入行。90年代半ばに国際金融担当として、海外市場における邦銀の業務や国際的な金融規制動向をモニター(監視)する役割を担った。秘書室調査役(国会担当を兼務)を経てフランクフルトに赴任した際にもユーロの誕生から間もない欧州と日本の間の情報・認識ギャップを埋める努力をした。2009~10年には預金保険機構に出向し、預金保険部長として日本振興銀の破綻処理を担当。2013年に外為証拠金(FX)会社のセントラル短資FXの社長に就いた。趣味はクラシック音楽鑑賞と居合道。 ◆邦銀撤退相次ぐドイツ、率先して情報周知 日銀のフランクフルト事務所長を務めていた1998~2001(平成10~13)年は日本の金融システムに対する海外の見方が特に厳しかったころだ。邦銀の撤退が相次ぎ、現地で日本の事情を詳しく語れる人が減っていたので、日本についての誤解が一人歩きをしないよう奮闘する毎日だった。 97~98年の山一証券と北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の経営破綻の影響は大きかった。邦銀の情報開示やコンプライアンス(法令順守)と政策対応への不信は極限に達し、日本を代表する大手銀でさえ外貨調達に苦しんでいた。信頼低下の象徴といえるジャパンプレミアムが拡大する中で、現地の当局者と会ったりドイツ語で講演したりして情報周知に努めた。 邦銀も守りの姿勢一辺倒だったわけではない。危機後の邦銀の海外事業は縮小傾向ではあったものの、与信先企業の信用力だけに依存しないプロジェクトファイナンス(大型事業向けの融資)などに活路を見いだそうとしていた。それを日銀側からフォローできたのは貴重な経験だった。 折しも1999年、統一通貨ユーロ導入に現地で立ち会った。日本では、ユーロや欧州中央銀行(ECB)などに対して懐疑的な英米有力メディアの論調に引きずられがちなことがずっと気になっていた。その後のユーロ安も影を落としていたようだ。だがドーバー海峡を隔てて大陸側にいれば、ユーロが導入国の崇高な理念と固い意志によって生まれたもので、いかに膨大なエネルギーと英知が注がれているかは自明。ユーロ圏各国の中銀関係者と対話を深め、日本に正しい情報を伝えるのと同時に改めて日本国内の事情を理解してもらうようにした。 ※ジャパンプレミアム……バブル崩壊に苦しんでいた邦銀に対し、欧米の金融機関がロンドン銀行間取引金利(LIBOR)に対し求めた上乗せ金利。1995(平成7)年に大和銀行(現りそな銀行)ニューヨーク支店で発生した米国債の巨額損失事件をきっかけに急拡大し、信用力の劣る銀行では上乗せ幅が1%を超えた。信託銀行などは手持ちの円を元手に為替スワップを通じてドルを調達し、その裏返しで欧米銀はゼロ%に近い利回りで円を借りられた   足元でもジャパンプレミアムが発生し、欧米金融機関は低コストで円を調達できるが、1990年代とは様相が異なる。日銀のマイナス金利政策による運用難に伴い国内勢のドル志向が高まったためで、信用不安を背景にした動きではない。 ◆「保険屋」としても危機管理 2010年、預金保険機構の預金保険部長として、経営破綻した日本振興銀行に対して発動された日本初のペイオフ(全額保護上限を1000万円とする預金払い戻し)処理を担った。今のところ国内で唯一のペイオフ事例だ。振興銀は普通預金を持たない特異な事業モデルだったことから金融システム全体へのインパクトは薄かったとはいえ、社会的事件として世間の注目度は高かった。国民に預金保険制度を正しく認識してもらういい機会になった。国際金融担当だった時代の危機管理のノウハウはここでも生きている。 振興銀の処理をした後でも預金保険機構の資金プールは潤沢で、大きめの銀行が複数倒れても大丈夫なほどだったので、金融業界からは保険料率引き下げの要請が強まった。関係者と「金融機関破綻は本当に遠のいたか」といった議論をした末、私の離任後には実際に引き下げにいたった。こうした変化は、1990年代の危機から2008年のリーマン・ショックなどを経て、金融システム不安がようやく峠を越えた証しでもあった。 一方、日本の実体経済は低迷をなかなか抜け出せない。技術革新などを背景に産業構造が世界的に変わっているにもかかわらず、自動車など重厚長大の輸出産業に経済を支える役割を期待する構図が続いているからだろう。 リーマン・ショックが起きた当時は日銀の大阪支店にいた。サブプライム(低所得者層向け)ローンもリーマン・ブラザーズも日本から遠い存在なのに、関西でも経済人が皆「なぜ?どうして?」といぶかるほどに悪影響と不安が急速に広がった。「需要の蒸発」がグローバル化と産業構造の転換の遅れとも深く関係していることを再認識させられたのを覚えている。 リーマン・ショックや東日本大震災後の円高は、昔からある円高恐怖症を改めて強いものにしたのではないか。安倍晋三政権誕生の前後から円安の流れに変わったとはいえ、引き続き円高を国難に結び付けがちなメンタリティは構造改革を阻む要因のひとつではないかと思っている。 円高恐怖症とセットで、欧米の景気や金融政策に左右されやすい構図も続いている。ここにきて米経済の減速懸念から米連邦準備理事会(FRB)の利上げペースが鈍るとの思惑がにわかに浮上し、ECBの政策正常化観測も後退してきた。日銀としては一段と金利が下がったときの副作用を心配する声がある中で、今後は打てる手が限られるとの悩みを抱えているのではないかと感じる。 ◆必要な構造転換から目を背けるな 日本は少子高齢化の課題先進国。遠からずアジアも欧州も同じ問題に直面する。課題を逆手に取り、海外に先駆けてビジネス分野を切り開いていく余地は大いにある。医療・介護・健康はもちろん、資産や経験と知識、時間が豊富な層向けの商機拡大を望みたい。 日本経済のパイを広げるには、単純に移民を国内の労働市場に呼び込むよりも、まず日本人の労働参加意欲を高めていくことが肝要だ。女性や高齢者の労働参加率の上昇傾向からは、働きたい人が増加し、また働きたい人々を受け入れる労働環境が整ってきた様子が確認できる。勤労機会の拡大は将来的な年金不安を和らげて消費を促すだろう。 さらにグローバルに活躍する人や企業とともに、産業のソフト化に伴って付加価値が高く為替の影響を大きく受けない分野が育てば、円高のトラウマからも脱却できそうだ。 東京五輪や大阪万博などのイベントも確かに経済を活性化させるが、目先の需要掘り起こしだけに気をとられ、本当に必要な構造転換を先送りしてしまうリスクが残る。長期的な危機管理の視点を忘れず、課題から目を背けてはいけない。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)蔭山道子 =随時掲載

平成・危機の目撃者➏ 市東久が見た天安門事件(1989)

「有事のドル買い」の構図いまも 戦争や政治的な混乱の際に米国にマネーが向かう「有事のドル買い」は、1989(平成元)年の天安門事件まで定石だった。以後は米同時多発テロ事件や中国の台頭によって鳴りを潜めるが、市場では「基軸通貨であるドルの優位性は損なわれていない」との声が根強い。2018年にディーラー生活40周年を迎え、金利と外国為替の市場を縦横無尽に駆け続ける「生き字引」である市東久クレディ・スイス銀行東京支店長もそうみる一人だ。 市東久氏 しとう・ひさし  1976年に東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。78年から本店為替部の為替課でディーラーとしてのキャリアを開始。6年間のロンドン支店勤務中は、王立取引所で始まったロンドン国際金融先物取引所(LIFEE)の立会場の公認フロアトレーダーとして公開セリ売買方式での先物取引にも携わった。帰国後は国債トレーディング業務に従事し、ヘッジファンドを経て92年にクレディ・スイス・ファースト・ボストン銀行(現クレディ・スイス銀行)に移籍。金利裁定(アービトラージ)のディーラーとして短期市場ではその名を知らない人はいないほどの有名人で、今も現役で活躍。愛読書は新渡戸稲造の「武士道」 ◆「円買い」には違和感 1989年6月の天安門事件で円相場は1ドル=142円前後から150円をうかがう水準まで下げた。天安門広場で中国の民主化運動が武力で鎮圧され、学生のデモ隊に戦車が突っ込んだ映像は世界に衝撃を与えた。この少し前、ドルは緩やかな下落基調で、数億ドルものドルの買い持ちを抱えていた自分は苦しかった。過去に積みあげた「含み益」は毎日100万ドル単位で目減りしていく。天安門の後のドル高は苦境を打破できた点でも鮮明に記憶に残っている。 今のところこれを最後に有事のドル買いは起きていないが、構図が変わったわけではない。例えばもし朝鮮半島が有事となったら円はどうなるだろうか。地理的に近い日本の円を持ちたくないとの空気が広がり、大きな金融機関や投資家を中心に円を売ってドルを買う判断に傾いてもおかしくないとみている。 経済評論家などが最近「有事の円買い」を乱発しているのを聞くと違和感を覚える。有事とは、戦争など安全保障上の重大な危機が起きたときに投資資金が逃避先を探し回るような状況を指す。例えばどこかの超大国の主要都市にミサイルが着弾するといった強烈なインパクトを持つ事象だ。 現在の円買いは国際分散運用を手掛ける投資家が円の減価に備える目的で、資産の一部を整理して円に戻しているにすぎない。巨大な対外債権国の日本にお金が回帰しやすい面はあっても、有事のリスク回避に伴って円が買われているわけではない。こうした点をきちんと理解したうえで解説者は有事の円買いという言葉を使っているのだろうか。とても不安になる。 ◆流動性リスク対処、受け継がれぬ経験 風化のリスクは有事のドル買いに限らない。市場の混乱局面には経験豊富なベテランの存在が必要だが、足元では日銀の緩和長期化による市場縮小に見舞われた短期金融市場を中心に、ノウハウがまったく引き継がれず危機感を抱いている。具体的には流動性リスクへの対処だ。 1990年代後半の日本の金融危機を生き抜いたわれわれの世代は信用不安と流動性枯渇の恐ろしさが身にしみている。2008年のリーマン・ショック前後でもまずドルの手元資金を厚めにした。欧米金融機関がドルの調達に苦しみ、銀行間の取引金利が上がっていくとすぐにイメージできたからだ。 一方、大手米銀は為替フォワード(スワップ)を通じて日米金利差の拡大に賭ける取引を先行させた。ドルを直物で売って先物で買い戻すもので、これをするにはドル資金をきっちり確保しておかなければならないのにしていなかった。結果的にとんでもない高いコストでドルを借りるハメになり、大きな損失を出した。逆にドル保有者のこちらは1日で数百万ドルほどの利益を計上した日もある。経験の差が物を言った好例だろう。 日本の短期市場では資金が潤沢で金利のない世界が長期化し、人員を配置して大々的にディーリングをする必要がない環境が当たり前になっている。経験者や専門家がいなくても何とかなっているものの、それこそ有事で右も左もわからなくなるリスクと背中合わせだ。 日本が量的金融緩和政策を解除して3度目の利上げ(初回は2006年、2回目は07年2月)のタイミングを測っていた07年3月1日、日銀主催の短期金融市場フォーラムで外国銀行の代表として提言をした。当時の中曽宏金融市場局長(後に日銀副総裁、現大和総研理事長)とも日銀の出口政策に向けて意見を交わした。無担保コール翌日物金利が0.001%に張り付き、既に短期市場がしぼんでいたので、経験者を市場に呼び戻す重要性についても語り合った。 中曽氏とやりとりをしてからさらに10年以上がたった。日銀が異次元の緩和策に足を踏み入れるにいたり、事態は一層深刻になってきたようだ。 ◆緩和が長期化、難しい時代に 日銀が異次元緩和に踏み切る前のことだ。日本の銀行は国内の融資ニーズが細って収益を上げられなくなるので、いずれ海外シフトしてドル建ての投融資を増やすと想定していた。ただ欧米の短期金融市場で簡単には直接ドルを借りられない地方銀行などがドル調達のため、手持ちの円を売ってドルを買おうとすると、ロンドン銀行間取引金利(LIBOR)比で0.80%前後も高い金利を払わなければならなかった。 ドル調達のコストが高すぎて運用しても収益を得られなくなったり、損失が出たりすれば投融資自体をやめざるを得なくなる。欧米銀が信用リスクを感じればドルを貸してくれなくなるかもしれない。ただでさえ米連邦準備理事会(FRB)が緩和からの「出口」に向かっているところだ。懸念は一昨年ぐらいから現実になり始めている。 数年前、前日銀総裁の白川方明氏と話をする機会があった。白川氏も自分と問題意識は一緒だった。貸出先を求めて海外へ打って出るとしても、資金調達やリスク管理のノウハウがなければうまくいかないだろうと心配していた。だが、経験はいっこうに蓄積されない。 1997年の金融危機の前の無担保コール翌日物金利は4%以上だった。2001年の量的緩和策の導入とともに0.001%になったとき、ものすごく小さな金利という意味で「ピーナツ」と海外の仲間にからかわれたのを覚えている。それがまさかマイナスになるとまでは当時は考えていなかった。 円金利単独での投資は基本的にはすることがない。フォワードで米金利の上下動に着目する戦略は引き続き有効だが、ドル資金の流動性の問題が出てくる。リスク管理の制約もきつい。 難しい時代になった。それでも有事にどう備えるべきかを常に意識しながら市場と向き合い続けたい。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)菊池亜矢 =随時掲載

平成・危機の目撃者➎ 二宮圭子が見た1ドル=79円台突入(1995)

「リスク回避の円高」ここから定着 1985年の「プラザ合意」以降に強まった円高の圧力は平成にも引き継がれた。円相場は95年に1ドル=79円台後半と未曽有の高値圏に浮上し、2011年には75円台前半とさらに値を伸ばした。95年は日本でバブルの後始末が始まり、同年1月に起きた阪神大震災の打撃が残る中で日本の経常黒字体質にも焦点が当たった。米シティバンクの外国為替ディーラーを務めていた二宮圭子氏は「95年は『危機の円高』『リスク回避の円高』が定着した年」と振り返る。 二宮圭子氏 にのみや・けいこ  シティバンク銀行入行後、1993~2000年に法人金融部門・外国為替部のインターバンクディーラーを経験。その後SMBC信託銀行に移り、投資調査部でシニアFXマーケットアナリストとして、為替市場の調査・分析および個人投資家向け情報提供を担当。テクニカル分析が得意。定期的に日経CNBCテレビ「朝エクスプレス」などのコメンテーターも ◆90円超えて天井見えず恐怖 インターバンク(銀行間)ディーラーになったのは1993年。著名投資家ジョージ・ソロス氏が引き金をひいた前年の英ポンド危機の波紋は既に収まっていた。対ドルの円相場も緩やかな調整局面が続いて鉄火場の経験を積めず、95年に加速した円高には戸惑い、慌てた。1ドル=90円程度までは想定の範囲だったが、それを超えたときには天井がまったく見えなくなった気分で、怖かった。 相場が一方向に振れ続けると注文は偏り、取引が成立しにくくなる。背景に金融危機などの何らかの事件・事故があると投資家はただでさえリスクをとれなくなっているので、参加者は細っていき、相場の振れ幅がより拡大していく。そんなときは対外債権を多く抱える日本で、マネーの自国回帰が通貨高を促すかどうかに着目すればよいというのが95年の超円高が示した教訓だった。 シティのような大手銀で、売り買い双方のレートを常に提示し市場に厚みをもたらす「マーケットメーカー」は苦しい。だがマーケットメーカーが逃げの姿勢だと顧客や取引相手の他の銀行は離れ、市場の流動性は一段と薄くなる。リスク管理の制約がきつくなった今では考えられないが、当時のマーケットメーカーは「相場環境が厳しくても、多少の損は覚悟で常に相手に適正な値を提示するのがディーラーの責務」との使命感にあふれていた。 ディーラーに攻めの姿勢がないと通貨当局の信認も得られない。90年代半ば~後半といえば「ミスター円」こと榊原英資氏などがアグレッシブに為替介入をしていたころだ。財務省の委託を受けた日銀からの注文にそつなく応じることもディーラーの責任。安心して任せてもらえるよう常に臨戦態勢をとった。提示される値から本気度を推し量ったものだ。 ◆タイバーツ急落、ピンチヒッターでピンチ乗り切る EBS(電子ブローキングシステム)が発達する前のディーリングは複数のブローカー(仲介業者)との間で専用回線を通したほか、銀行担当者とダイレクトに電話でやりとりしたり、ロイターのチャット機能を使ったりするアナログな作業の積み重ねだった。目の前にはブローカーとつながった7~8つのスピーカーとマイクが並び、それぞれから聞こえてくる売りと買いの値段の優劣を瞬時に判別しベストな条件で取引を成立させていく。それに電話やロイターなどを組み合わせていく職人芸の世界だった。 ボイス(声)中心の世界は現在に比べ、相場が緊張しているか否かを測りやすかった。半面、たいていは大台を省略するので、荒れているときにはいったいいくらで取引されているのかすぐ理解できない。そのリスクを痛感したのが1997年夏のアジア通貨危機だ。 タイを震源地とする危機が発生した後、休暇中だったアジア担当の代わりにアジア通貨のトレーディングデスクに回ったことがある。慣れていないので水準感がまずわからない。しかも取り扱う通貨の数が多く、スピーカーからは各通貨の値が一緒くたに流れてくる。発展途上だった各国の法規制にも目配りしなければならない。相場は大荒れで収拾のメドはたたず、大台がいくらか気にしながらの五里霧中の取引は生きた心地がしなかった。 代打期間は2週間ほどだったが、一日の上下動が激しいときだったので少しミスをしても挽回可能だった。場数を踏んできた他のディーラーのサポートも得て次第に平常心を取り戻し、どうにか乗り切れたのを覚えている。 97~98年は日本も大手金融機関の経営破綻などで危機的な状況にあり、当初は円の悪材料とみなす空気が出ていた。だが、米ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)ショックなどを経た98年秋には円が急伸。ここでも「リスク回避の円買い」が勝った。 ◆機械時代でも受け継がれるもの 足元の外国為替市場は機械の「アルゴリズム」取引全盛の時代。人間のディーラーは徐々に数を減らし、かなりの部分をコンピューターに任せるようになっている。コンピューターが高速で回転売買を繰り返すため相場のボラティリティー(変動率)は安定してきた。そのうえ20カ国・地域(G20)が通貨安阻止の姿勢を示していることなどを背景に自国通貨売りの介入は難しくなった。21世紀初頭までのようにやっていては生き残れないだろう。 それでも受け継がれるものはある。インターバンクディーラーの仕事は経済指標などのマクロデータや、事業法人と投機筋などのお金の流れを的確につかみ、顧客に適正なレートを示すことだ。基本はアルゴ全盛のいまでも変わらない。顧客の持ち高状況を把握できれば次のトレンドをいち早くつかめる。 もし生身の人間として取引判断をするのなら、損をしたときに「取り返してやる」などと熱くならないことも重要だ。相場には必ずオーバーシュート(行きすぎ)が生じる。感情を持たない機械がプログラム通りに働いても起こるときは起こり、次にいったん止まるか反転する。そこでテクニカル分析などを用いて冷静に値動きを眺め、潮目を外さなければ必ず収益拡大の好機がやってくるはずだ。 =日経QUICKニュース(NQN)金岡弘記 =随時掲載

平成・危機の目撃者➍ F・ギレスピーが見た欧州債務問題(2013)

大手銀の技術者流出、そこからアルゴが広がった 平成時代の後半を彩ったコンピューター・プログラム取引「アルゴリズム」。アルゴが急速に広がった背景に、ギリシャの財政問題に端を発する危機に揺れた欧州大手銀からの技術者流出があったことはあまり知られていない。米JPモルガンや米ゴールドマン・サックスなどでアルゴに携わったフィリップ・ギレスピー氏は「欧州銀に集まっていたアルゴ専門家がヘッジファンドなどに移っていなければアルゴ取引はここまで普及しなかっただろう」と話す。 フィリップ・ギレスピー氏 ジョージア工科大学経営工学部を卒業し、コンサルタント業務を経験した後の2006年にリーマン・ブラザーズ入社。株部門の電子取引チームに属した。破綻前にリーマンを離れ、カリフォルニア大学で金融工学の修士号を取得しバークレイズ銀行東京支店の為替ディーラーとして市場に戻る。JPモルガンやゴールドマン・サックスを経て、18年2月より電子取引を主体とした暗号資産の流動性提供会社であるB2C2日本法人の代表取締役 ◆日進月歩の技術、慢性的にエンジニア不足 アルゴリズム取引の一種で、目にもとまらぬ速さで売り買いを繰り返す高頻度取引「HFT」は2010年代に入ると頭角を現し、13年(平成25)年ごろには外国為替を中心に進化が速まった。劇的といっていい。 13年前後といえば、ギリシャの債務隠しをきっかけとした危機のあおりで欧州銀の経営不安が拡大。ドイツ銀が不動産の関連商品を販売していた米国で、リスク管理の不備に絡む大型の訴訟案件を抱えるなどスキャンダルも相次いだ。その余波で報酬カットや人員整理などのリストラを余儀なくされた欧州銀から、マーケットに精通した多くのエンジニア(技術者)が流出した。 アルゴはとにもかくにもエンジニア次第だ。現在の仮想通貨(暗号資産)業界が技術者不足に悩んでいるように、技術が日進月歩であるためにその数は慢性的に足りない。しかも為替や株のアルゴには高度な金融知識が求められる。ギリシャ発の危機はそれらの問題点の解決に寄与してくれたわけだ。 HFTは円とユーロの対ドル取引など厚みがある市場で常にオファー(売り)とビッド(買い)双方の注文を示し、基本的にはリスクをとらずに小さな差益を積みあげていくモデルだ。市場に流動性を供給するマーケット・メーカーに似た役割を果たす。他のHFTとの激しい競争に勝ち、利益を出し続けるには技術的なアドバンテージを保ち続けなければならない。 ◆市場拡大で飽和、次は暗号資産へ 山口県で生まれた後、9歳で米国に渡り、小学校から大学まで米国で過ごした。卒業後は経営工学の知識を生かしてコンサルタントとして働いていたが2006年、リーマン・ブラザーズから株のトレーダーにならないかと誘いを受けたのをきっかけにマーケットでのキャリアをスタートさせた。アルゴ取引に出会ったのもそのころだ。 投資銀行には「プロップデスク」と呼ばれる自己売買部門がある。リーマンも同様で、そこでまずは海運コンテナの運賃動向に絡めてどの国のどの資産を取引するのがベストかというプログラムの構築にかかわった。 リーマンが破綻する少し前に入ったカリフォルニア大学バークレー校のハース・スクール・オブ・ビジネスでは大手ヘッジファンドのプロジェクトマネジャーなどそうそうたる面々が講師だった。そこでアルゴのおもしろさにはまり、どっぷりと漬かっていく。ビッドとオファーのさや(スプレッド)を取りに行くマーケット・メイク型アルゴは当時としては新しかった。 以降は英バークレイズ銀の外為ディーラーとしてアルゴを手掛け、JPモルガンを経て15年にゴールドマンに移った。実力主義のゴールドマンは居心地が良かった。だが、ヘッジファンドや他のフィンテック会社に技術的ノウハウが行き渡るにつれて先行きを不安視するようになった。そんな中で元同僚に誘われ、コンピューター時代の落とし子となる暗号資産の市場に転じた。技術者の流入が市場を広げ、飽和していく構図はアルゴと変わりない。 ◆「デジタルゴールド」化の可能性も 17年後半~18年初めのビットコインやビットコイン以外の「オルトコイン」の価格急騰は確かにバブルだった。流動性の低さや手数料の上昇など課題だらけで、金融資産としての人気もすっかり下火だ。それでも限られた自分のお金を守る手段の1つとして依然として魅力的だと考える。 ビットコインはリーマン・ショックの余韻さめやらぬ中で生まれた。銀行預金よりも多額の紙幣や電子マネーが当の銀行によって作り出される状況に対し、「非中央集権」の理念を掲げて登場した。ソブリンリスク(政府の信認リスク)が高まったときの常道は「無国籍通貨の金を買う」。ただデジタル化社会では、ビットコインなどが「デジタルゴールド」のポジションを得てもおかしくはないだろう。 足元では様々な国でポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭している。例えばトルコのように経済基盤が脆弱で金利も高く、企業が外貨で資金繰りをしていた国では今後、政府の資本規制や外為リスクが上昇する過程で「自分の資産は自分で守る」との心構えが重要になる。トルコに限らず政治経済、通貨システムなどに難題を抱える国や地域で国境のない暗号資産を求める動きが出るのは自然の流れだ。 日本は株や為替を軸にした金融都市としては近年、シンガポールや香港に後れを取っている。一方、暗号資産の分野では逆転のチャンスがあるのではないか。その「根源的価値」がマクロ経済とどう結びつくのかについてこれから吟味し周知させながら東京を金融センターとして復活させるのが夢だ。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)尾崎也弥 =随時掲載

平成・危機の目撃者➌ 今井雅人が見たアジア通貨危機(1997~98)

ドルペックがバブル助長、リーマン危機も同根 三和銀行(現三菱UFJ銀行)外国為替部門の大物ディーラーで鳴らし、剣道の達人でもある今井雅人氏は現役時代、研ぎ澄まされた勘で相場の転換点を察知し、アジア金融危機をもたらした新興国の過剰なドル調達や対米ドルの固定相場制(ドルペッグ)といった背景を見逃さず利益を出した。「おいしい話は永遠に続かない」。誰もが分かっているはずなのに、もうけたいとはやる心が先に立ってバブルを生んでしまう――。今井氏は「利益追求が市場参加者の目的である限り、危機は繰り返す」と断言する。 今井雅人氏 いまい・まさと 1985年に三和銀行(現三菱UFJ銀行)入行。89年から5年間米国のシカゴ支店で勤務し、通貨先物市場を通じて外国為替市場との関わりを深めた。三和銀と東海銀の合併で生まれたUFJ銀行のチーフディーラーを経て2004年に退職し、金融情報会社グローバルインフォ(現DZHフィナンシャルサービス)を設立。マットキャピタルマネジメント代表兼経済アナリストとしてい積極的に情報配信を続ける。09年から衆院議員を務め、現在4期目 ◆腑に落ちない値動きが虫の知らせ 成功体験を1つを挙げるとすれば、アジア通貨危機やロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)破綻などを受けて市場が混乱した1997~98年だ。98年の秋にはあっという間に20円近く円高・ドル安が進むなどかなり荒っぽく動いた。実は円高が加速する直前までずっとドルを買い持ちにしていたのだが、ふと居心地の悪さを覚えて円買い・ドル売り戦略に変えた。とたんに円は上昇し、1ドル=115円を大幅に超えたところで利益を確定できた。 なぜ持ち高をひっくり返そうと思ったか。タイミングについては虫の知らせとしかいいようがないが、予兆は感じていた。水準自体は1ドル=140円台で安定していたにもかかわらず値動きがかなりおかしかったのだ。 例えば1ドル=140円20銭で厚い円買い・ドル売り注文が控えているのにそれよりも円安の140円50銭で取引が成立した後、次の出会い値が再び140円20銭になるといった具合だ。外為取引は短い期間で資金交換を終えるため、無担保でお金を貸し借りする市場に比べると与信管理は緩い。それでも決済リスクなどを考慮し、経営基盤が弱そうな銀行とは取引しない。売りと買いのレートの逆転現象は特定の金融機関を巡る不安が水面下で広がっている状況を示唆しているのではないか。そう解釈した。 修羅場をくぐったディーラーには市場の空気をかぎ分ける力が備わっている。仲介業者(ブローカー)の声と電子トレーディングシステム(EBS)の取引画面が伝える生の注文状況や、次々と成立していく取引などの一次情報から投資家やディーラーが何を考えているのか、何が起こっているのかを判断していく。メディアやインターネットで流れる相場動向は二次情報でしかなく、重要度は低い。 1997~98年に話を戻す。当時のアジアはほとんどが成長途上の純債務国。金利の低い米ドルで資金を調達し、自国を含めた金利の高い国で運用して利息収入を稼ぐ「キャリー取引」に傾いていた。ドルペッグ制の下で、アジア通貨の対ドル相場は動きが鈍いとの前提にたつ危うい戦略だった。ひとたび投資家が運用資金を引き揚げると取り付け騒ぎのような状態に陥る。 タイから始まったマネー収縮は瞬く間に広がり、タイが変動相場制に移ると他の国も固定相場を維持できず、98年には多くがペッグ制を廃していった。傷を負った世界の金融機関や投資家は体力低下に苦しむ。それを察知した他の市場参加者は与信枠を絞り、EBSなどが示す値段の不可解さにあらわれる。 ◆2007年まだ危機感薄かった日米欧の金融当局 2008年にリーマン・ショックが起きたときはアジア危機とそっくりだと思った。07年の「パリバショック」から小康状態を挟み、本格的な金融危機にいたる2段階の構えは、タイバーツの暴落からアジア全体の危機に波及したころと似ていた。原油高で潤った中東などのオイルマネーがドルペッグ制をテコにドル建ての資産に流れ、低所得者向け融資(サブプライムローン)証券市場の過熱をもたらしたのもアジア危機前のキャリーブームを連想させる。 07年の冬に榊原英資元財務官(現インド経済研究所理事長)とニューヨークに出張した。前半は当時のガイトナー・ニューヨーク連銀総裁やサマーズ元財務長官など当局関係者や学者を中心に回った。日本の財務官だった篠原尚之氏(現東大教授)が後に振り返っている通り、日米欧ともに金融・通貨当局の危機感はまだ乏しく、市場の混乱を楽観的に捉えている印象を受けた。 半面、出張後半に訪れたゴールドマン・サックスやメリルリンチなどの投資銀行の幹部、ジョージ・ソロス氏といった著名投資家を回ると様子が違う。「金融機関の資金調達が難しくなっている」「何となくおかしなムードだ」との声が相次いだ。榊原氏とは「市場の混乱は止まりそうにない」との意見で一致した。 米政府の最大のミスはリーマン・ブラザーズをさっさと見限ったことだ。1つの銀行が倒れると市場は「次はどこか」と疑心暗鬼になり、短期金融市場を中心に取引が凍りつく。信用不安の怖さはアジア危機で身にしみていたはずだが、教訓を生かせなかった。数カ月前にベアー・スターンズを処理して安心したのだろうか。もしリーマンも救っていたら激震は食い止められたかもしれない。 ◆何事も永遠には続かない 危機はたいてい、みなが「大丈夫だろう」と慢心した後に起こる。言い換えれば誰もが「危ない」と警戒しているときには何も起こらない。昨年末から19年初めにかけて株式相場が急落すると、「19年の後半は危ない」との予想が増えたが、2月にかけて株高が再開した。本当の危機の芽は心理的な要素が濃く、目には見えにくい。 アジア危機やリーマン・ショック時は日米欧や新興国の間でだいぶ金利差が開いていたので、キャリーによるバブルの可能性を主にチェックしておけばよかった。だが足元では主要国の金融緩和と金融機関の規制強化によって金利格差を背景にしたカネの流れは細っている。傾斜は株式など他の資産できつくなっていると考えられるが、PER(株価収益率)の点などから判断すると株式相場がとんでもなく割高とまではいえないのが実情だ。ではリスクの芽はどこに潜んでいるのか。 個人的に気になるのが中国の不動産市場だ。深センなどの新興地域に向かうと不動産価格の異常さに驚く。日本円で500万円だった土地がわずか数年で2億円に達するぐらいの上げ幅を普通に記録している。この部門が崩れると怖い。ただ中国では不動産も株も手掛けるといった総合投資家が少なく、株の相場には不動産ほどの熱は感じられない。このままいくとしばらくは中国が大崩れすることはないだろう。 2018年初めにかけての仮想通貨ブームも既に去り、金融・資本市場への影響も薄れた。一時は国境をまたいでの通貨機能に期待が増えていたが、主権国家における通貨発行権は極めて重要なものだ。もし侵害されれれば政府・中央銀行はただちに規制するだろう。しかも仮想通貨は存在そのものに決定的な矛盾を抱えている。決済手段としての通貨は価格安定が不可欠なのに、投機資金で市場を活性化させるには変動がないといけない。 おそらく危機は、我々がいま把握していない場所から発生するのだろう。改めて肝に銘じておきたいのは、何事も永遠には続かないということだ。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)菊池亜矢 =随時掲載

平成・危機の目撃者➋ 深代潤が見た運用部ショック(1998)

一瞬、揺らいだ日本国債の信認 一時8%台まで上昇した日本の長期金利(10年物国債利回り)はマイナス圏のまま平成を終えようとしている。1990年(平成2年)から債券運用に携わってきた三井住友アセットマネジメントの深代潤グローバル戦略運用グループヘッドは「平成の債券市場は異常事態が多発した」と振り返る。中でも印象的なのは98年秋~99年初めに起きた大蔵省(当時)の「資金運用部ショック」と2003年の「VaR(バリュー・アット・リスク)ショック」だという。 深代潤氏 ふかしろ・じゅん 1988年に日本債券信用銀行に入行。資金営業室で大企業向けの金融商品のセールスを担当した後、市場証券部、証券部で国内債券業務に携わる。その後は日債銀投資顧問やトヨタアセットマネジメントでファンドマネージャーを務めた後で2013年4月、会社合併により三井住友アセットマネジメントに入社。16年10月からグローバル戦略運用グループヘッドに就き、17年4月からは執行役員を兼ねる ◆記憶に残る「4大ショック」 1990年から債券運用に携わり、日々の相場状況やレートをノートに書き留めてきた。基本的に「べき論」で成り立ち、外国為替などに比べると理屈や経験則通りに動く債券市場では記録がいっそう大切。何度も読み返したので背表紙ははがれかけている。 それでも平成には異常事態が多発した。かつて成り立った「財政悪化は金利上昇の要因」との方程式は90年代後半から崩れていく。債券運用者として利回り面での「春」を謳歌できたのは長期金利が6%台から8%に上昇した平成の前半だけだ。以後はデフレと金融危機、それらに対処するための財政拡大と日銀の政策対応に債券市場は振り回されて相場の力学は複雑になっていった。 特に印象に残る出来事は「資金運用部ショック」と「VaRショック」。格付けなどみなが信じているものこそ疑うべきだと痛感させられた08年の「リーマン・ショック」も忘れられない。さらに時がたち、運用者としてぐうの音も出なくなったのが「黒田緩和」(日銀による異次元の金融緩和政策)だ。 ◆「まだ終わってねえぞ」「投げるな」 運用部ショックでは0.6%台から2.4%台へ、VaRショックでは0.4%台から1.6%台へと、いずれもわずかな期間で長期金利が急上昇したが、何とか乗り切った。まだどうにか経験をいかせる時代だったといえるだろう。 運用部ショックは財政支出の拡大が先行するなかでの金利低下局面とあって(逆回転に)備えはしていた。想定外だったのは日銀の速水優総裁(当時)が突然「財政拡大時の金利上昇は当然」との認識を示したことだ。 政治家と財務省、日銀の足並みが乱れれば国債の信認は後退し、金利はリスクプレミアムを織り込む形で上昇していく。速水氏の発言を受けて債券市場で投げ売りが膨らんだ。同僚のディーラーは「終わりましたね」と嘆いたが、金融危機のまっただ中で金利が上がるはずはないとの信念で「まだ終わってねえぞ」「投げるな」と言い聞かせながら買い下がり、生き延びた。 03年のVaRショックは債券依存度を高めていた銀行勢の持ち高が「沸点」を超えたために起きた。一部の銀行が持ちきれなくなった債券を売り、ボラティリティー(変動率)が急伸するとそれに耐えられなくなった売り手が次々とあらわれ、自己増殖的に売りが加速していった。 銀行の債券運用は国債相場のボラティリティー(変動率)安定を前提にしている。投資が収益追求の行動である限り、誰よりももうけたいとの欲望は止められない。だが持ち高を永遠に増やせるわけではない。いつかはオーバーシュート(行きすぎ)の段階にいたる。ファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)が改善しているのに下がりっ放しの金利はおかしいとオーバーシュートの気配を感じ、銀行の深追いはしないようにした。 運用ではデフォルト(債務不履行)債券を一度もつかまなかった。基本的に投資対象の格付けは「A格」以上と決めている。これまで保有中にA格から格下げになったのは1社だけだ。だからこそリーマン・ショックで信用リスクへの懸念が強まっても動じず、逆に買い増す余裕を持てた。 ◆歴史から学べること、学べないこと 一方、13年4月に始まった「黒田緩和」は出だしからとんでもないことになった。会社の合併に伴い、今のチームに移って数日、システムの仕組みに慣れておらず、まだ発注すらマニュアルなしではおぼつかないときだ。期初の資金流入などによりかなりまとまった額で買わなければならなかったところに「バズーカ砲」を撃ち込まれた。 マーケットからは売り手が消え、買い気配でまったく値が付かない。買うに買えなくてぼうぜん自失、「この会社での運用者人生は終わったな」と本気で考えたものだ。 朝一番で出した成り行きの注文に応じてくれる相手が見つかったのは何と14時をすぎてから。しかも前日とあまりにもかけ離れた(高い)水準での取引成立に「これ間違ってるよね?」と思わず口にしたのを覚えている。 歴史から学べるものは確かに多い。例えば1990年代後半の日本の金融危機では「流動性」の大切さを思い知らされた。金融機関や企業が破綻するのは資金が回らなくなるからだ。 97年秋に三洋証券が無担保コール市場で初のデフォルトを起こし、巨大な短期金融市場での取引が凍りつくと、間を置かずに北海道拓殖銀行が倒れた。デリバティブ(金融派生商品)市場も縮んで山一証券の破綻につながった。「次はどこか」との疑心暗鬼がどんなに恐ろしいかは2008年のリーマン・ショックでも明らかになった。その過程で信用リスク対応のノウハウもだいぶ積み上がったが、今度は金融政策がどんどん未踏の領域に進んでいる。 日銀の掲げる2%の物価目標を達成することと、国民生活を豊かにすることは次元の違う議論だ。バーナンキ元米連邦準備理事会(FRB)議長の「ケチャップを買え」ではないが、闇雲に物価だけを上げればいいはずがない。 日銀はマイナス金利政策の欠点を理解しつつも導入せざるを得なかったのだろう。それゆえマイナス金利をすべてには適用しない仕組みを整えたが、市場の拒否反応は強かった。政策はすぐには変えられない。効果がないとも、間違えたとも、役割を終えたとも認められずに長期化する金融政策には「出口」は見えてこない。日ごろの投資判断の材料は日銀オペ(公開市場操作)の増減額予想のみだ。 先行きの見えない今は、国内債への傾斜は難しい。社債などのクレジット商品や外債にお金を振り向けざるを得なくなっている。新しい元号になって祝賀ムードが盛り上がり、ラグビーワールカップ日本大会や東京五輪などをへて国内経済の楽観論が戻り、現状の閉塞感を打破できればよいのだが。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美 =随時掲載

平成・危機の目撃者➊ 藤巻健史が見た英ポンド暴落(1992)

平成も残り1カ月半。この約30年間、金融市場は様々な危機やショックに見舞われてきた。激震の平成から何を学び、将来にどう生かすか。危機を目の当たりにしてきた市場関係者に聞いた。シリーズ第1回はモルガン銀行(現JPモルガン・チェース銀行)東京支店長などを務めた藤巻健史フジマキ・ジャパン代表。1992(平成4)年の英ポンド危機を振り返り、市場の調整機能の重要性を強調する。 ソロスファンドの「暴力」と「市場調整機能」 藤巻健史氏 ふじまき・たけし 1974年に三井信託銀行(現三井住友信託銀行)入行。85年にモルガン銀行東京支店に移り、資金為替部長を経て95年に東京支店長(兼日本代表)に就いてディーラーとしても存在感を示す。2000年にはジョージ・ソロス氏のアドバイザーを務めた。その後は企業のアドバイザーやいくつかの大学で教べんをとり、13年から参議院議員 ◆欧州通貨メカニズム参加の矛盾を突く いまでも夢に出るほど後悔しているのが92年、ジョージ・ソロス氏率いるヘッジファンドの激烈な英ポンド売りを指をくわえてみていたことだ。欧州の為替相場メカニズム(ERM)に参加していた英国は多くの矛盾を抱え、ERM離脱とポンド下落は当然の帰結にもかかわらず、ソロスファンドの二大ファンドマネジャーの一人、スタンリー・ドラッケンミラー氏の鬼気迫る動きに追随できなかった。 90年にERMに入った英国はポンドの対ドイツマルク相場の中心レートを1ポンド=2.95マルク、変動幅を6%に収めなければならなかった。つまり1ポンド=2.77マルク以上を維持するとの条件だったが、当時の英国は景気が悪く、ポンドには常に下落圧力がかかっていた。 英中央銀行のイングランド銀行はポンド買いの市場介入で相場を支えようとしたもののらちが明かない。景気が悪いから英国では簡単に利上げできなかったし、ドイツはドイツで根強いインフレ懸念から利下げが難しかった。どちらも金融政策による通貨安定は厳しかったわけで、ドラッケンミラー氏のポンド売り戦略は後から振り返ると非常に論理的だった。市場の調整機能が働けばポンド安や英国のERM離脱は避けられなかったはずなのに、なぜ付いていかなかったのか。 英国は結局ERMを離脱し、そのおかげで通貨安が進み、英経済は回復した。ソロスファンドのとった行動について「市場の暴力」「やりすぎ」といった批判も聞こえてくるが筋違いだ。ひずみが生じたらうまく調整し、結果的に良い方向に進めていく市場の健全性をもっと評価してほしい。 ドラッケンミラー氏とはのちにソロスファンドで一緒になった。ファンドのもう一人の巨人ニック・ロディティ氏がオンとオフをはっきり分けるメリハリの効いた性格だったのに対し、アナリスト出身らしい学究肌の冷徹な雰囲気が印象に残っている。 ◆「イングランド銀をつぶした男」の素顔 2000年に加わったソロスファンドでは初めて損失を計上し、あっさりとクビになった。ドラッケンミラー氏からはその後、中東に拠点を置く総額1兆円規模のファンドに誘われたが、自分の全財産の80%をファンドに入れる条件が付いていた。子供が小さかった当時、ファンドと一蓮托生(いちれんたくしょう)の勝負はもうできなかった。自らの一切合切を賭けられないとすればどうすべきか。そのとき、ディーラーをやめようと思った。 ソロス氏は一言で表すなら好々爺(こうこうや)。ヘッジファンドのオーナーには変わり者が多く、例えば相場観などの説明を聞くためだけにわざわざプライベートジェットでニュージーランドからロンドンまで飛んで来たり、引き連れてきたエコノミストの質問を途中で遮ってまったく無関係の話題を始めたり、ディーリングルームの隣に超高級スポーツジムを設立したりなどの奇行の話題には事欠かない。ソロス氏はマーケットセンスはあまりなかったと思うが、人柄に関しては穏やかで好ましかった。 ◆異次元緩和は最大の失敗、出口を見いだしにくく 平成最大の失敗は日銀が2013年に導入した異次元の金融緩和政策だろう。2年で2%の物価目標を掲げて国債などの大量購入に踏み切り、伝統的な金融政策は本当の終焉(しゅうえん)を迎えた。 日銀が現在やっているのは財政ファイナンス(財政赤字の穴埋め)そのもの。出口は見いだしにくい。これだけ財政赤字が拡大するなか、物価目標を達成したから緩和をやめると言っても政府はおそらく受け入れないだろう。金利上昇で予算が組めなくなり、財政危機に陥りかねないからだ。 日銀のバランスシート(貸借対照表)は危険水域に入っている。もし当座預金の金利を引き上げれば支払利息が増える半面、資産のほとんどを占めるのは金利が低く残存期間の長い国債のため、損失が膨らんで債務超過に陥りかねない。 ドイツが第2次世界大戦で敗れた後、中央銀行がドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)からドイツ連邦銀行(ブンデスバンク)に移った例はあるが、平時ではない。日本が平時に中銀が変わる初めてのケースにならないかと心配している。 1つアイデアがある。日銀が米連邦準備理事会(FRB)の保有する米国債を直接買い取ることだ。日本経済が低迷している要因の1つは外国為替市場での円高傾向だ。半面でFRBは現在、保有米債を売却しバランスシートを縮めている最中で利害は一致する。為替介入とみなされずに行き過ぎた円高を食い止める方法はいくらでも存在する。 ◆「飛ばし」「問題先送り」体質変わらず 市場の健全性を測るにはそのときそのときのリスクをきちんと計量化できる仕組みが必要だ。具体的にいえば時価会計。リーマン・ショックなど次々と訪れた危機でいつも米国の経済の立ち直りが日本よりも早かったのは時価会計を徹底し、潜在リスクの有無の把握がスムーズに進んだからではないか。 時価会計なら損失は昨日と今日の差でしかない。ところが日本ではまだ簿価会計の部分が少なくない。もしここで時価会計に変え、損失を出すと過去のことも含めてすべて自分のせいになるので、損切りがなかなかできない。だから「飛ばし」が発生する。古くは山一証券を破綻させた問題先送りの悪弊はすぐには改善しないだろう。 日本でもし物価目標の2%がみえてくると金利の先高観が強まり、財政破綻は近づく。市場では「日本は対外資産が巨額なのですぐには財政破綻しない」との声ばかりだが、資産のほとんどは政府のものではない。インフレ率が急上昇する「ハイパーインフレ」が起これば政府債務は相対的に減るが、国民に負担を強いることになる。日銀による巨額の日本国債の購入は財政破綻リスクをまさに「飛ばし」ているだけだ。 =聞き手は日経QUICKニュース(NQN)菊池亜矢 =随時掲載

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