平成・危機の目撃者⓯ 香月康伸が見たリーマン・ショック(2008)=最終回

震源地はいつもクレジットバブル

背後にはいつもクレジット(信用)バブルがあった――。リーマン・ショックをもたらした米国のサブプライム(低所得者層)向けローン市場の混乱など、平成の世界を揺さぶった危機はおおむね信用バブルが震源地になっている。1997(平成9)年に経営破綻した山一証券の出身で、現在は投資銀行部門の市場調査を手掛けるみずほ証券の香月康伸シニアプライマリーアナリストは「これからも『すべての道はクレジット商品に通ず』だ」と話す。

      香月康伸氏

かつき・やすのぶ 1989(平成元)年に山一証券入社。証券営業の後、英国留学し帰国後は債券部でリサーチに携わる。山一の自主廃業に伴って98年に興銀証券(現みずほ証券)に移り、国内外のクレジット市場と公的部門、ストラクチャードファイナンスを中心に調査業務を続け、2014年にはプロダクツ本部のプライマリーアナリストとして発行体向けリサーチ活動を始めた。19年4月からサステナブル・ファイナンス室SDGsプライマリーアナリストを兼務

◆レバレッジ追求、マネーの総額が実体経済の3.5倍に

平成の約30年間で、実体経済の規模をはるかに上回るお金(マネー)が市場に出回るようになった。世界の金融資産の総額と名目の国内総生産(GDP)のバランスは1980年ごろはほぼ均衡していたが、日本のバブル期の90年には金融資産が名目GDPの2倍を超えた。リーマン・ショックが起きる前年の07年には3.5倍程度まで膨らんだ。

借り入れを併用し運用資産を膨らませていく「レバレッジ」をここまで追求できた時代は過去にない。大量のマネーがファンドや証券化商品に流れていくのを横目に「ファンド資本主義」なる言葉も生まれた。その延長線上でサブプライムローンの市場が膨張し、ベアー・スターンズやリーマン・ブラザーズを巻き込んで破裂にいたったのは自然な流れといえるだろう。

ファンド資本主義という言葉が生まれた当時、「ニューキャピタリズム」と呼ばれる考え方も出てきた。融資先が破綻すれば金融システム全体を動揺させかねないとの伝統的な思想に対し、ファンドを通じて世界中から資金調達できればシステムは安定し、危機は発生しにくくなると主張するものだった。

企業が成長資金としてマネーを求めるのではなく、マネーが投資対象として企業を求める。過剰流動性が我も我もと投資先を取り合ったために企業の債務不履行(デフォルト)率は確かに下がり、世界的な低金利環境も背景に投資残高は積み上がった。だがいずれ限界は来る。信用膨張が極限まで進んだときに起きたのがリーマン・ショックだった。

◆「北極星」が動くほどの衝撃
米国のサブプライムローン債権は様々な形で証券化された。市場参加者のほとんどは「(証券化商品が抱える)リスクは全部分散しているから大丈夫」と安心しきっていたが、右肩上がりと思われていた米住宅価格の上昇が止まり、(住宅価格の上昇を前提としていた)サブプライムローンの仕組みの根幹が崩れるとマネーの逆回転が始まる。

そのころ、金融保証会社(モノライン)が最上格のトリプルA格を失った。モノラインは金融市場の関係者にとって北極星のようなもの。情勢判断をするうえでの重要な支点となる。モノライン格下げは北極星の位置が動いたぐらいの衝撃だった。余剰資金の大きな受け皿となっていた米住宅市場とその証券化商品が発火点になり、危機的状況に陥った。

リーマン・ブラザーズの破綻で世界を金融不安が覆うと、銀行支援に乗り出さざるを得なくなった欧州各国の財政は悪化する。体力のない国への投資家の視線は厳しくなっていき、南欧諸国との格差問題など、ポピュリズムの台頭のきっかけにもなった。

うねりは新興国にも波及し、マネーの還流を伴いドル高が進行。金融システム不安と全く関係のなかった日本の円にも「低リスク」とみなす買いが入り、円高を通じて実体経済が打撃を受けてしまう。

ともあれ様々なイベントの中心には常にクレジットがいた。平成はそんな時代だったわけだ。

◆社債発行市場は20年余りで成熟、確実に前進

山一証券が1997年に自主廃業をしたときには債券のディーリングルームにいた。日本の社債市場元年はこの97年と考えている。97年と98年の2年間で、実に20兆円もの起債があった。

97年は中堅の三洋証券が無担保コール市場でデフォルトし、次いで北海道拓殖銀行が倒れた。そして山一だ。金融不安の中で株価は下がり、景気も悪くなっているのに企業はなぜ資金調達をしようとしたのか。10年ほど前のバブル最終局面で発行された大量の新株予約権付社債(転換社債=CB)が満期を迎え、借り換えのニーズが高まったためだ。

エクイティ(株式)のファイナンスはできず、銀行も金融不安のなかで融資に応じる余裕はない。残された選択肢が社債だった。国債比での金利の上乗せ幅は相当なものだったが結果的に、それまで電力債が大半だった日本の社債市場に様々な業種の発行体を呼び込み、年限の多様化が進んだ。99年にはノンバンク社債法施行や普通銀行の社債発行解禁などもあり、市場はおおいに盛り上がった。

間接金融が主体の日本市場では米国などに比べると社債市場の規模はまだ小さい。だが足元では、40年の社債発行も一般的になるなかで三菱地所による50年債が出てくるなど、成熟度は高まりつつある。確実に前進はしていると感じている。

=聞き手は日経QUICKニュース(NQN)片岡奈美

=おわり

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